過去の法話

ガラスが割れたら

京都府 隠龍寺住職 児玉哲司 老師

「割れたガラス理論」というものを耳にしたことがありませんか。都市犯罪に悩まされていたアメリカで、近頃言われ始めた言葉だそうです。大きな犯罪も、一枚のガラスから始まる、というのです。

住む人の少なくなったビルの窓ガラスが、まず一枚いたずらで割られます。それを放っておくと、それが誘い水になって、次々に窓ガラスが割られていってしまいます。多くのガラスが割れて、人のよりつかなくなったビルは、大きな犯罪の温床になっていきますし、しまいにはそのビルのある一角全体が荒廃してしまいます。大きな犯罪というのは小さな犯罪を放置することから始まるのだ、というわけです。

この経験則にもとづいた犯罪対策がいろいろな都市で実行されているそうですが、おもしろいのは、だからガラスを一枚も割られないようにしよう、というのではないところです。むしろ、「ガラスが割られるのは仕方がない。けれども、一枚割られたら、一枚のうちにもとどおりに直していこう」という柔軟なスタンスなのだそうです。
つまり、犯罪が起きることを見越したうえで、それでもあきらめずに犯罪を最小限に抑えようという姿勢です。いたちごっこもいとわない、そんな不断の前向きな努力が功を奏しているそうです。

私たちはよく、「今年こそは○○をしよう」といった高い目標を掲げがちですが、なかなか長続きさせられません。目標が自分を引っ張ってくれる場合もありますが、大抵は「目標負け」とでも言うのでしょうか、理想とした自分と、それをやっぱり実行できない自分との落差が大きくて、そのギャップにまいってしまうことがありますね。
どうでしょうか、今度目標を立てる時は、完璧主義ではなくて、自分の弱さも織りこんだ「割れたこころの理論」で目標を立ててみませんか。大事なことは、やめたいという気持ちが起こったり、少々サボってしまう日ができるのはあたり前と割り切ること。そしてそのうえで、その割れた部分を直す努力を続けていくこと、です。 

あのお釈迦さまですら、「こころはざわめくもの。きちんとととのえておくことは本当にむずかしい」と常々おっしゃっておられたそうです。なおのこと私たちは、サボりぐせが顔を出すことはやむを得ないと割り切って、自分のペースで努力を続けていくべきではないかと思います。

2007/05/08