過去の法話

言葉をつつしむ

京都府 隠龍寺住職 児玉哲司 老師

私たちはどんな言葉でも口にできます。真実も嘘も、やさしい言葉もきつい言葉も、感動もおべんちゃらも、何でも簡単に言葉にできてしまいます。

しかし、ついつい度を越して自分を誇ってしまったり、きついことを言ってしまったり…と、後から取り消して回りたくなるような言葉を口の端にのせてしまった経験は誰にでもあることでしょう。

以前、「あなたが今まで言ったなかで一番恥ずかしいことは何?」というアンケートがありました。一番多かった答えは何だと思いますか。 実は、「恥ずかしすぎてとても言えない」という答えが断然トップでした。

言われてみれば確かになるほどその通りです。「誰でもそうなんだ」と少し安心もしたのですが、やはり一旦口にした言葉の重みはなかなか消えないことに少し身が引き締まる思いがしたことを覚えています。

お釈迦さまは、むなしい言葉にとらわれて限りある人生を無駄にせぬよう、何度もお弟子を戒められました。自分を誇る言葉も他人をあげつらう言葉も、共に限りはありません。所詮は自分のとらわれの心の生み出す言葉に過ぎません。ちょうどこれは風に向かって土ぼこりを投げるようなもので、結局は自分を汚すことになるのだ、そうお示しになっています。

道元禅師さまも、「言葉をしゃべる前に、三度考えなさい」とお示しです。その言葉が本当に必要なものかどうか、仏道にかなったものかどうかをよくよく考えたうえで、なお言うべきを言い、言わざるべき言葉を飲みこみなさいと諭されたのです。

よく「氷山の一角」と言いますが、実際に氷山は海の上に見える部分の実に六倍もの量が水中に隠れているのだそうです。昔の庭造りの名人も、庭石を置く時に全体の三分のニは土に埋めたものだと言います。

それだけの量が露わにならずに、逆に隠されているからこそ、氷山や庭石を見て私たちは名状し難い重量感や存在感を感じるのでしょう。

心の中に漂う言葉、口の端からこぼれようとする言葉を今一度飲みこんでみて、本当に必要な言葉を吟味して話す。そのように心掛けるところに自分なりの深さがおのずと表われはしないでしょうか。

2004/12/15