過去の法話

無常迅速

京都府 萬歳寺住職 服部俊憲 老師

先日、友達の和尚さんが亡くなりました。50歳の人生でした。

今年に入って体調を崩し入院されていました。
(入院直後は不安と心労がある、見舞いは手術後のほうがいいだろう。ご家族の方にも迷惑にになっても)
と思い見舞いはひかえました。

しかし1ヶ月後、近くの病院から専門の病院に転送されていました。
(しまった、見舞いに行けば良かった)
そう思いました。

転送された病院は遠いのです。
(そうそう見舞いに行かれない、しまった)
私は後悔しました。

それは私の都合なのです。
(近い方が行きやすい、遠くの方が大変だ。半日ですむところ、まる一日かかる。)
忙しいのを理由にしているのです。

その後手術が無事終わり、近々もとの近くの病院に転送されることを聞きました。
(よかった、見舞いにいける。その時でいい、よかった。成功して本当に良かった)
しかし、友達はなかなか転送されてきません。
(手術は成功ときいている。遅い、なぜだ)
そう思っている矢先、悲しい連絡が入りました。
危篤です。今日、明日、いや時間の問題です。
(見舞いにかけつけよう。明日行こう)

一時間後、次の連絡が入りました。
亡くなったそうです。心が動揺すると同時に後悔の念が走りました。
「坊主が一番無常が分かっているはずだ」
私自身この世が無常であることは解っているつもりでした。しかし、頭で理解しているだけで、本当は解っていないのでした。

『無常迅速』という仏教の言葉があります。
消滅の転変は速やかとういう意味です。
あれも、これも一度にはできませんが、今日できることは今日中に、今できる事は今すませてしまう。
友達の見舞いもすぐに駆けつけていたならば後悔しなくてもよかったのです。

人の世は、あの世に行ってからでは遅い、後悔しない人生。それは、今日ただ今をとり逃がさず努力していくことですね。

またひとつ尊い友の死で学ばされました。

2003/07/15