
禅話「私がわたしになる」No.4(質疑応答)

坐禅は、ほんとうは、指導者がいたほうが絶対に望ましいのです。からだで実際に実習をするのも大事ですが、学ぶということも大事です。
ですから、できればどこかの坐禅会にまいりまして、私のところでも20年以上、坐禅会を続けております。
今度、四月から神戸新聞のカルチャーセンターで、坐禅と『正法眼蔵』という書物を読みながら、みなさまに禅の教えをお伝えしたいと思っておりますが、最初のうちは特に、どこかの禅会へ行って、心身共に坐禅と仏教の、禅の教えを学ぶということが大事ですので、そういうことに努めていただきたいと思います。

先ほど申しましたように、別に精神統一をするために坐禅をするのではないのです。坐禅というのはむしろ、精神統一というよりは、精神解放といったほうがいい。 精神統一して何を求めるかということです。統一してどうなるのか。それも、人間一つの計らいに過ぎないのではないか。こころを統一してどうするのか。
だいたい精神統一して、ろくなことはしないですね。むしろ解放したほうがいいと思います。自己のうちにこり固まっても意味がありません。「只管打坐」というのは、それとは正反対です。精神統一では決してございません。
肩がこるというのはやはり、どこかに力が入っているのではないかと思います。たしかに気力はいるのですよ。
道元禅師はこういうことをおっしゃっています。「坐禅は自分のためにやるようではだめだ。道心のない坐禅はだめだ」とおっしゃる。衆生済度をこころがけない坐禅はだめだ。大事なことです。
自分の内ばかりにこもるような傾向。精神統一はそういうところがあるでしょう。自分の内に内にと深く、錐でもみこむように潜っていくわけです。地上に出て行かないで、地下に潜っていくような坐禅はだめだと、私は思います。もちろん、眠っていて坐禅はできませんから、緊張もいります。解放しながら緊張するという。
昔、桂枝雀さんが、「笑いというのは、緊張の緩和だ」とおっしゃいましたが、あれは緊張と緩和のあいだにずれがありますが、坐禅は緊張と緩和を同時に行ずるのです。そういうところが違いますね。

私たちは、魂を鍛えるために坐禅をしているのではありません。「私がわたしになる」。先ほどお話ししたとおりです。その「私」というのは、この肉体に閉じこめられた「こころ」ということではないのです。
道元禅師はこういうことをおっしゃっています。「こころ」とは、太陽であり、月であり、星であり、あるいは山であり、川であり、谷であり、大地である。『正法眼蔵』のなかにそういう言葉がございます。
こころとは「日月星辰山河大地」。あるいは「牆壁瓦礫」。要するに、みんなこころの世界だということです。「こころ」だということです。
ですから、坐禅は魂を鍛える方法ではないということでございます。自己が自己になること。それが禅です。「私がわたしになる」ことが禅でございます。
坐禅会をしている会場については、教化センターのホームページでも紹介しております。最寄りのところにおいでになってみてください。

これは、臨済の坐禅でも瞑りませんね。なぜ瞑らないかというと、先ほど言いましたように、精神統一をするには目を瞑ったほうがいいかも知れませんね。仏教のなかにも、そういう修行のしかたはあるんです。「観法」と申します。
特に真言のほうでは、「阿字観」などというのがございますが、目を瞑って、「阿」という字を瞑想して、そこへ精神を統一するという、でも私どもの坐禅は、常に目を開いて、目を開くことによって、眠らないということがありますね。これは大事です。
みなさん、今日は、多少緊張していらっしゃるかも知れませんが、ご自分で、坐禅をしばらく続けられるとわかりますが、眠くなるのです。いつのまにか目を瞑っています。だから、目は開けておいたほうがいい。
だいたい、お仏像の眼というのは坐禅の眼でしょう。目を見開いている仏さんはあまりないですね。お不動さんとかは、また違います。
如来さまの眼というのはだいたい半眼と申しますが、坐禅に近い目ですね。瞑想している仏さんを、私はまだ見たことがないです。そういうことでよろしいですか。
○司会 はい、ありがとうございました。まだまだご質問もあるとは思うのですけれども、お時間がまいりましたので、申しわけございません。こちらで、質問は打ち切らせていただきます。 それではみなさま、もう一度、幤道紀老師に大きな拍手でお送りくださいませ。今日は、ありがとうございました
○幤 ありがとうございました。失礼いたします。 (質疑応答 終了)
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