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禅のお話〜私がわたしになる〜

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私がわたしになる

 

禅話「私がわたしになる」No.3

 


いまからおよそ1500年近く前、7世紀から8世紀にかけて、当時の中国、唐の時代です。初唐から中唐にかけて生きた人です。インドから中国に禅を伝えたのが達磨大師ですが、それから五代目の方、歴史的には六代目ということになるのですが、六祖慧能という有名な方がいらっしゃいました。


日本には臨済僧と、黄檗という禅が伝わっておりますが、これらの禅のすべての源は、六祖さんから発するわけです。

 

 その方のところへ、南獄懐譲という方が仏法修行のために訪ねました。そのとき、六祖慧能さんが南獄懐譲に向かって、「是れ甚麼物か恁麼来」とお尋ねになった。当時の中国の俗語ですが、「なに者がそのようにやってきたのか」ということです。禅はこういうことをよく問います。「あなたは何ものか。私は何ものか。本来の『私』とは何か」。

 

 六祖慧能さんは、「あなたは何ものか」とたずねた。南獄懐譲さんは答えられなかったのです。それから六祖さんのもとで8年間修行を続けました。

だるまイメージ

 8年経ったある日のこと、お師匠さんのもとへまいりまして、
「私がかつて、こちらへまいりましたときに、『ナニモノカ、インモライ』。あなたは何ものかと、たずねられましたが、私はそのとき、答えることができませんでした。いま、ようやくその答えを得ることができました」といって、
そこでひとこと示すわけです。
 「説似一物即不中」
漢字ではそう表現しますが、「一物」というのはなんでもいいのです。「それ」ということです。みなさん自身でもあるし、眼鏡でも、なんでもいいのですが、星でも月でも山でも川でも「一物」。

 

  何かを説かんとすれば、あたらない。言葉というのは、便利ではありますけれども、ほんとうは抽象的なものなのです。いのちの真実そのものを直接示すことはできないのです。
  「あなたは何ものか」。いろいろな答え方があるわけですけれども、みなさんもそれぞれ、自分というものをおそらく説明できないと思います。
 


禅で「私」というときは、この一個の肉体と心だけを「私」とは言いません。私と私が生きている世界すべてが「私」なのです。これは大事なことです。


  ヨーロッパの近代哲学や近代科学が起こるのは、デカルトの「我思う、故に、我在り」という二元論の世界観から現代科学社会は発現していますが、二元論はいま行きづまっているのです。

つまり、主観と客観に分けて主観が客観世界を利用し、征服し、そしてそれを搾取するという。いまの社会はちょうどそうでしょう。

 それによって私たちは、いま大変苦しい生存のしかたを強いられている。二元論の世界というのは、いま大変反省されている状況にあるのですが、仏教というのは、お釈迦さまの当時から、自分と自分の生きている世界を一つのものと見るのです

 今日は時間があまりありませんから詳しいことは申しませんが、科学文明、あるいは経済、政治、そういったものは、私たちの外側から変革することによって、私たちの生き方を否応なく変えていくところがございますけれども、禅は自分が変わることによって世界が変わっていくという、生き方にかかわるものだということをまず、押さえておいてください。
その変わることの基本が坐禅ということなのです。外なる世界と内なる世界が一つになる世界。坐禅の基本はそういうことですね。

 今日のテーマでございます、「私がわたしになる」。同義語の反復のようですけれども、私の思いとしては、漢字で表した「私」というのは、名誉とか、財産とか、「名色食財睡」の五欲などのもろもろの自ら良しとする価値にひきまわされている日常的な自己を、便宜的に表現しました。


 いま、日本中はグルメ狂いでございますけれども、そういった諸々の、自分が良しとするものに鼻面を引き回されて、そして足もとがお留守になっている「私」が、その放浪の生き方を引き戻す


  「回向返照(エコウヘンショウ)」という言葉がございます。
「回光返照の退歩を学すべし」  ご来光イメージ
私たちの眼は、常に前方ばかりを見ておりますけれども、その光をめぐらして、自分の足下にあてて、「退歩」です。進歩ではないのです。一歩退いて自己の根源に帰りなさい。「回光返照の退歩を学すべし」


  「帰家穏坐」という言い方もいたします。

さまよえる自らが家に帰って、「ふるさと」というのは、自己のことです。
「私」の根源に帰って、穏やかに坐す。揺るがないいのちの目覚めに腰を据えなさい。

「あなたは何ものか?」 みなさんへの宿題でございます。「私は何ものか」。ほんとうは、頭では答えられないのです。言葉で答えようとすると、その問いかけているいのちの主人公は、問いかけた言葉の常に後ろにいるのです。後ろにいるということは、言葉ではとらえられないということです。



『金剛経』のなかに、「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」という言葉がございます。
  みなさんはいつも、自分は同一性を保って、変わらずに生きていると思っていらっしゃるでしょうが、写真を見るとよくわかりますね。20年前、他人が見ると、別人のようになっていることがよくあるでしょう。自分だけが、変わらず自分だと思っているだけですね

  我がこころ。昨日のこころはもうないんです。明日のこころは、まだ来たらず。いまのこころは、とらえようとすれば、すでにもう過去のものになるんですね。 時とはそういうことですね。とらえようとすれば、すでに過去へと。仏教では、落謝と申します。過去へ移っていく。
言葉によっては、我がこころもつかまえることができない。そのこころをどうやってつかまえるか。

 

ほんとうはつかまえる必要はないんです。解放すればいいんです。
思い、はからいを捨てて、こころと姿勢と呼吸を整えて、ただ。

この「ただ」ひたすら、というのが大事なのです。
つまり、右往左往するということは、「ただ」ではないわけです。何かのために私たちは右往左往しているわけです。
ただ坐禅をする。価値がないようだけれども、無限の縁起の理法に根ざした、無限の価値があるとも言えると思います。

短時間でございますので、意を尽くさぬところがございますけれども・・・。ほんとうは、べつに禅だけが「私がわたしになる」ということを標榜しているわけではないのです。
仏教の根本は、「私がわたしになること」ということでございます。時間もまいりましたので、これで終わらせていただきます。失礼いたしました。    (禅話おわり)
(ひきつづき、質疑応答)

 

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