
禅話「私がわたしになる」No.2

大乗仏教の初期の経典のなかに、『般若経典群』というのがあります。たくさんの『般若経』があります。『般若心経』がポピュラーですので、みなさんもご存じかと思いますけれども、そのほか、600巻にものぼる、『般若経典群』というのがあります。
『般若心経』はそのなかには入っておりません。
『般若経』も時代を追って編集されていくわけですが、初期のころのものに、『金剛般若経』というのがあります。そのなかに、こういう表現のしかたがあります。
たとえば、「一切の法は(「一切の法」と申しますのは、「ありとあらゆるものは」ということです。例外はありません)みなこれ、仏法なり」。
このへんは、話し出すと長くなりますので省略いたしますが、そういうことが説いてあるというところの「一切の法。ありとあらゆるものは、すなわち、一切の法に非ず」。不思議ですよね。「一切の法は、一切の法に非ず。このゆえに、一切の法と名づく」。
これは有名な、仏教の「即非の論理」という、かつて鈴木大拙博士がそういうふうに呼んだ、仏教の論理の一つでございます。
これを私たちにあてはめてみますと、「私は、わたしでない。これを私という」。こういう言い方になる。「私」というのは実体がないのです。「私をして、わたしたらしめているもの」というのはないのです。みんなこれは細胞が集まって、縁起の理法によって、私はいまここにこうしてある。
いま、みなさんと私は向かい合っております。私は話す側。みなさんは聞くほう。たとえばこの会が終わって、みなさんが何か質問なさると、私は聞くほうで、みなさんは話すほう。
つまり、その人、その人のありようは、時と所において常に変化している。変化しているということは、実体を持たないということ。私は常に話す側ではないわけです。「私は、わたしでない。これを私という」。
仮に、私はここにこうしてある。この「私」というのは、頭でつかまえることはできないんですね。私はよく、「私はわたしでない。これを私という」ということを、いのちの真実の姿というのはそういうことだというふうに、お話をするのです。
みなさんは「私」を説明できますか。
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