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禅のお話〜よりかからずに生きる〜

サイトTOP > 禅のお話 > よりかからずに生きる(4)

 

先ほど、最初の問答にございました。
「如何なるかこれ仏法」
それに対して私は、
「心は仏にあらず」
心は法にあらずと言っても結構ですが、「心は仏にあらず、智は法にあらず」、あるいは「道にあらず」。どちらでも結構です。

  私たちは、自分と自分以外の世界というふうに分けております。

自分と他人、自分と世界、主観と客観。こういうふうに常に2つに(二元論と申しますが)二元に分けている。そのなかで自我を立てて、そして何とかその二元の間で、自分を中心に物事を処理したり、考えたり、執着したりして生きているわけですね。
その二元の生まれる以前に立ち返りますと、たとえば私はいま、目にみなさまが映っております。つまり私の目は、みなさまと一つなんですね。みなさまというときには、私は目を意識しておりません。つまり私の眼はみなさまなのです。みなさまが、そこに坐っていらっしゃるのは、足によって坐っているわけですが、足は床を踏んでおります。つまり、足と床は一つなんです。実際には私たちは、そういう生き方をしております。
心だけの世界というのは、ないんですね。心と言うときには、この世界も心なのです。仏教ではそういう捉え方をします。自分と他とは本来一つである。「一如(いちにょ)」と言い方をしますね。「一如」のところに二を持ち込むのが人間の「分別」ということです。

親子関係がうまく行っているときには、親子という意識すらないと思うんですね。夫婦という意識もないと思うんです。夫婦一つ、親子一つ。何かしっくり行かなくなると、妻と夫に分かれて行くんですね。
ですから私たちが坐禅をするということは、私が生きている宇宙も一緒に坐禅しているということなのです。私たちは宇宙と共なる坐禅をしている。私がしているのではない、共にしているのです
そこにさらに「分別」を持ち込んで、悟りを求めたり、おれは迷っていると反省したり、そうする必要は毛頭ありません。ただ心をオープンにして、何ものにもとらわれないで、山がどっしりと根を下ろすように坐ること。

それが本来の自己に立ち返ること。何ものにも、鼻面を引き回されて生きない。これが先ほどの瑞巌師彦の言った「主人公」という意味なんですね。

 

「主人公」というのは、これは他に対して言う言葉ではなくて、自らが自らであることに目覚めること。これがほんとうの「主人公」になるという意味でございます。 

あと、先ほどの、「本来の面目」という問いに対しまして、私が答えた言葉がございますが、お約束の時間がまいりましたので、今日の禅話は一応、ここで区切らせていただきます。
要するに、よりかからずに生きる、最も大切なのは、自らが自らに立ち返る。そのためには、この「只管打坐(しかんたざ)」。「只管打坐」というのは、先ほど申しましたように、何ものをも求めないということなのです。ただ、仏様の坐禅を自らが行ずること。それが「只管打坐」の本意です。

 

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