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禅のお話〜よりかからずに生きる〜
先ほども、私たちは、その生まれを知らないと申しました。 過去は記憶の中にしかない。未来は想像の中にしかない。私どもが、「時」というものを考えると、この「時」は、今をおいて他にはないということです。 私たちの自己というのは、ほんとうは実体を持たないんですね。 「無我(むが)」ということを申しますが、私という実体的存在はない。
仏道を学ぶには、これはやはり仏様にならなければ、仏道というのは歩めないのです。 仏道というのは、仏が歩むから仏道。凡夫が歩めば凡夫の道なのです。
今日は最初に、初めて坐禅をなさった方もいらっしゃいますが、私どもの日本の曹洞宗の祖である道元禅師は、たとえば、「最初の坐禅は最初の坐仏である」と申されました。 一番初めに行うところの坐禅が、最初の仏様の現れ出た姿であるということです。 坐禅の説明のときにも申しましたように、私たちの坐禅というのは、仏の形と、仏の呼吸と、仏の心を持って修行するところの坐禅である。 この坐禅は、悟りをも求めません。なぜなら、元々悟りの世界の上において行ずる坐禅だからです。そのためには、坐禅のときの心の持ちようとして、自らのはらかいを捨てること。雑念を追わないこと。そういうことを申しましたが、そのことによって自己が自己となる。
執着や欲の元は何から起こるかと申しますと、仏教では「分別(ふんべつ)」と申します。たとえば「般若経」には、「無分別」という言葉が無数に出てまいります。 「分別」には必ず、「私」、「我」という心が付いて回っております。「他」に対して「自我」を立てる。その上で「分別」をする。 「我」と「他」という関係のなかで、常に私たちは「分別」を繰り返し、その「分別」の上で、いろいろなとらわれの心を起こしたり、愛着を起こしたり。 真実の自分というのは、生まれたときも分からない自分が、頭で考えて自分が分かるわけがないんですよ。絶対にほんとうの自己というのは、これは理性とか観念では捉え得ないものなんです、ほんとうの私。捉えようとする私と、捉えられる私。そうすると自己が二つに分かれてしまいます。その二つに分かれる以前の自己に立ち返ることが、私たちの坐禅である。そのためには、はからい、つまり「分別」を捨てなければいけない。 |
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