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禅のお話〜よりかからずに生きる〜

サイトTOP > 禅のお話 > よりかからずに生きる(3)

 

先ほども、私たちは、その生まれを知らないと申しました。
また、明日の自己をも知らない。昨日の自分というのは、もうないんですよ。1時間前の自分というものは、もうここにはありません。1時間後の自分もここには存在していない。いま私たちがあるのは、ここにいる私なのです

過去は記憶の中にしかない。未来は想像の中にしかない。私どもが、「時」というものを考えると、この「時」は、今をおいて他にはないということです。

私たちの自己というのは、ほんとうは実体を持たないんですね。

「無我(むが)」ということを申しますが、私という実体的存在はない。

 道元禅師は、仏道仏法という言葉をよく使われます。
仏道というのは、仏の歩まれた道であり、仏のさとりでもあります。
あるいは、仏法というのは、仏の世界、仏の説かれた教えということです。


普通、仏教とよく言いますが、仏教というと、どうしても教え。教えというと、どうしても言葉が表面に出てまいりまして、教える者と教えられる者、説く者と説かれる者というふうに取られやすいのですが、仏道と申しますと、仏の歩まれる道、歩まれた道、非常に実践的な意味合いが強くなります。

 

仏道を学ぶには、これはやはり仏様にならなければ、仏道というのは歩めないのです。

仏道というのは、仏が歩むから仏道。凡夫が歩めば凡夫の道なのです。

 

 

今日は最初に、初めて坐禅をなさった方もいらっしゃいますが、私どもの日本の曹洞宗の祖である道元禅師は、たとえば、「最初の坐禅は最初の坐仏である」と申されました。

一番初めに行うところの坐禅が、最初の仏様の現れ出た姿であるということです。

坐禅の説明のときにも申しましたように、私たちの坐禅というのは、仏の形と、仏の呼吸と、仏の心を持って修行するところの坐禅である

この坐禅は、悟りをも求めません。なぜなら、元々悟りの世界の上において行ずる坐禅だからです。そのためには、坐禅のときの心の持ちようとして、自らのはらかいを捨てること。雑念を追わないこと。そういうことを申しましたが、そのことによって自己が自己となる。 
つまり、欲とか執着とかといったものを捨てる

 

執着や欲の元は何から起こるかと申しますと、仏教では「分別(ふんべつ)」と申します。たとえば「般若経」には、「無分別」という言葉が無数に出てまいります。
  一般社会では、「あの人は無分別な人だ」と言うと、あまりいい意味には言わないですね。反対に、「あの人はなかなか分別のある人だ」と言うと、ひとかどの見識を持ったというか、常識を備えた人のように受け取ります。

  仏道では、まるで反対です。
先ほどの、愛著とか執著とか欲、それの元になるのは「分別」、あるいは「無明(むみょう)」と申しますが、「分別」というのは、あれこれ自分のはからいごとを持ち込むことなんですね。

「分別」には必ず、「私」、「我」という心が付いて回っております。「他」に対して「自我」を立てる。その上で「分別」をする。

「我」と「他」という関係のなかで、常に私たちは「分別」を繰り返し、その「分別」の上で、いろいろなとらわれの心を起こしたり、愛着を起こしたり。
そのことによって本来の自己が振り回されて行く…。
その振り回されている「分別」を離れること、これが坐禅の世界であるということなのですね。

 真実の自分というのは、生まれたときも分からない自分が、頭で考えて自分が分かるわけがないんですよ。絶対にほんとうの自己というのは、これは理性とか観念では捉え得ないものなんです、ほんとうの私。捉えようとする私と、捉えられる私。そうすると自己が二つに分かれてしまいます。その二つに分かれる以前の自己に立ち返ることが、私たちの坐禅である。そのためには、はからい、つまり「分別」を捨てなければいけない。


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