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禅のお話〜よりかからずに生きる〜

サイトTOP > 禅のお話 > よりかからずに生きる(2)

 

今日のお話のテーマは、「よりかからずに生きる」ということでございますので、そのあたりから話を進めながら、先ほどの問答のことなどについても触れてまいりたいと思います。
  よりかからずに生きる。
私たちは普段は、いろいろなことによりかかって生きております。仏法では「縁起(えんぎ)」ということを申します。いろいろな「因」と「縁」によって、私たちは生きていると共に、生かされているという在り様を「縁起」と申します。

  この「縁起」の世界というのは、ほんとうは私ごとの挟めない世界なのですね。

たとえばみなさん、いろいろな縁によって、この世に誕生なされました。ただその誕生されたときの自己というものを、知っていらっしゃる方は、いらっしゃらないと思います。何年何月何日に私は生まれたと、聞かされているだけなんですよ。自ら生まれたことを知っている人はいないですね。

つまり縁によって生まれてきた。自分のはからいを離れたところで私は生まれてきた。
たとえば病気になるときも、なりたいと思ってなる人もいなければ、なりたくないと思ってもなるわけです。つまり、そういうことも自己のはからいを超えているわけですね。

 先ほど、「生死涅槃(しょうじねはん)」と申しました。

「生死」というのは生き死に。私たちのこの身体の細胞というのは、50兆ほどの細胞から成り立っているそうです。しかも毎日、3000億の細胞が死滅して行きます。そして新たに、新しい細胞が生まれております。神経細胞、あるいは筋肉細胞の一部は、生まれたときのまま、亡くなるまで成熟はしていき、死滅はしないと言われておりますが、ほとんどの細胞は瞬間、瞬間に生滅を繰り返している。

 

仏教では「刹那無常(せつなむじょう)」ということを申します。つまり、刹那、刹那に、私たちは生き死を繰り返している。吐いた息が次の瞬間、吸えなければ、私たちは死ぬわけです。吸った息が吐けなければ。私はある人の臨終の様子をつぶさに見守っておりましたが、吸った息が最後には吐くことはなく、それが死であったわけですね。 

そういうふうに、私たちの命というものは「刹那無常」である。これも私たちのはからいを超えた「縁起」の世界なのです。
「縁起」というのは、私たちはよく、縁起がいいとか、悪いとか申しますが、私ごとを差し挟めない「縁起」の世界に対して、私にとって都合がいいか、悪いかということを思っているだけなのですね。
明日を迎えられるかどうか。今日ここでみなさまとお会いしていますけれど、私のほうがみなさまに、おさらばするかも知れないし、みなさまのどなたかが、明日には、明日という日を迎えられないという可能性は常にあります。明日ばかりではないですね。1時間後、30分後、そういうことですね。

 

 

仏教では、5つの欲とか6つの欲ということを申します。
たとえば五欲などというのは、財産欲。あるいは色欲、これは男女間の愛執ですね、愛によるとらわれ。それから飲食欲と申しまして、飲み物や食べ物に対する欲。あるいは名誉欲。あるいは、いつまでも寝ていたい、睡眠欲というもの。この五つのことを仏教では五欲と申しますし、五官や意識の対象も欲望の対象として把えるならば欲になります。
  欲というのは何かと言うと、要するに、とらわれなのですね。欲のことを妄執、愛執、執著(しゅうじゃく)、そういうふうな言い方ができるかと思いますが、私たちは、その様々なとらわれのなかで生きている。それにかえって生き甲斐を感じている方もおられるでしょう。しかし、欲望は無限ではありますが、欲望を叶えさせる客観情勢というのは有限です。そこでいろいろな精神的なトラブルが起こるわけですね。

 

 

中国の唐の時代、8世紀の中ごろですが、瑞巌師彦(ずいがんしげん)和尚という方がおられました。
この和尚さんは、山の上の大きな石の上で毎日、坐禅をする。起居は洞穴のなかでするという、修行にひたすら励んだ方です。
この方が毎朝、起きますと、「おい、瑞巌よ、瑞巌よ!」と自分に呼びかけ、さらに「主人公、主人公」と呼びかける。

それに対して、「はい、はい」と自分で答えるわけです。

自分で「主人公」と呼びかけておいて、自分で「はい、はい」と答える。

さらに、「おまえは目を覚ましているか」と。「はい、はい」と、また答える。
また、「他時、異日、人の瞞(まん)を受くることなかれ」と。

要するに、いつの日か、人に騙されないように、しっかりと目を見開いておれ。そういって毎日、毎朝、自らに呼びかけていたという、そういう故事があります。
毎日、自らに「主人公、主人公」と呼びかける。「目を覚ましているか」、「人に惑わされることなきように、己をしっかりと保っておれ」と。この「主人公」ということですね。
よりかかるというのは、要するに、自己が主人公でないのですね。欲のほうが主人公ですね。先ほどの例で言うと、五欲が主人公で、自分は五欲の後に従うことになります。
欲望は種類も無限ですし、量も果てがありません。要するに、主人公としての生き方は、欲を追求するなかからは生まれてこない。

 禅門では、この本来の主人公のことを、先ほど問いに出ておりましたが、本来の面目(ほんらいのめんもく)、そういう言い方でも言います。本来の面目というのは、本来の私とは何か、そういう問いかけです。 
あるいは、「父母から生まれる以前の自己」。また、「物の兆しのあらわれる以前の自己」。あるいは、「天と地の兆しが、いまだ天地がまだ分かれざる以前の自己」。そういう言い方で自分のほんとうの在り様というものを捉えようといたします。
坐禅とは、要するに、そういう本来の己に立ち返る。先ほど坐禅の説明のところで申しましたが、それが私どもの仏道を求める在り方であるわけです。


瑞巌師彦は自分に対して主人公と呼びかけましたが、普通、主人公と申しますと、たとえば映画や演劇や小説や、いろいろな場面で、自分が他に対して、自分が中心人物になることが主人公ですが、仏道で言うところの主人公というのは、自己が自己になりきることが主人公であると申します。

 

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