
立松和平「わたしの道元さま」ダイジェスト(2)

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・・・僕は道元禅師というと、月のことを考えるのです。芝居の中にも書いたのですけれども、月光が降り注いでいます。月光というのは、どれを選ばず、すべてを包んで、光は万象のものだと、『正法眼蔵』の中にあって、僕は大好きなのです。万象とはすべての現象です。月光というものは、すべてを包んでいる、万象を包んでいるわけです。

・・・例えば手を差し出せば、この手の中に月光は満ちるわけであります。しかし月光を掴もうとすると、指の間からみんな漏れてしまって、月光は掴めない。しかし、何を差別するわけでもなく、区別するわけでもなく、月光は満ちているわけです。仏の教えをいうものはこういうものだという。「光は万象の具」というのは、どういう意味かと言えば、月光が全部の現象、この世のできごと、我々がやること、心の中すべてを呑んで、包んでいるという意味であります。これは道元禅師の根本的な思想だとおもいます。何にも隠されていないということです。月の光は我々すべてを包む。我々ばかりではなく、川の水も木の葉も虫も鳥も、生きとし生けるものすべてを包んで、何も隠していないということです。
もっと言えば、『正法眼蔵』の中に一貫して流れている思想というのは、真理というものは何も隠されていない。この一瞬、我々の目の前にすべて顕わになって「ある」ということです。過去も現在も未来も、僕たちの目の前に全部「ある」。実際にそうでしょう。人間というものは、いろいろな自然現象を見て、真理というものを一生懸命見ようとするわけです。しかし人間は、まだまだわからないことはいっぱいあるわけです。いっぱいあって、それを解読するというのが、自然科学などの営みです。 道元禅師風に言えば、何も隠されていないのではないか。何にも隠さずに、すべて顕わではないかという考え方です。すべて顕われ、目の前にあるのに、それを知らない我々は、真理がここにあると気付かない我々は、哀れむべき存在であるという考え方だと思うのです。ですから、手の中にいっぱいに満ちる月光は、一つの真理の象徴です・・・
・・・つまり、一滴の水があって、真理そのものである月が、その水に映りますが、その月は水に濡れない。水は月を映しても破れない。
我々の心もそうです。真理を宿しても、我々の心は破れない。真理は濡れない。そして月というのは大きな光だということなのだけれども、小さな水にも宿り、月の全体も、宇宙全体も、一滴の露にも宿るということです。草の上に付いている一滴の水滴に宇宙全体が宿る、月全体が宿る。つまり、この中に真理が全部、宿っているということです。
この一滴の草に付いた一滴の露というのは、我々のことです。我々は一滴です。その中に真理が宿るよ、とおっしゃっているわけです。しかも、それは我々が真理を宿したところで、我々はべつに壊れたり、何もしない。何の現象もないけれども、だけど我々は全宇宙と対峙するぐらい大きい存在になるのだよ、ということが、道元禅師が教えてくださっているわけです。
悟りというのは、僕はそのように、一滴の水であるところの自分が、宇宙全体を宿す。月全体を宿すということではないかと思うのです。
ですから、小さな人間が大きな宇宙を宿すということは、何よりも我々人間の生きる励ましです。我々は決して小さくないです。かといって、大きいのだと言って増長しては話にならないけれども、しかし全宇宙を宿すほど我々は深い。 それを宿すためには、水が美しく澄んでいなければ、月をそのまま宿すことができないように、我々心を、月を宿すということは、我々の心を美しく澄ませることが必要だいうことだと思います。なかなか難しいことです。
(ダイジェスト版 おわり)
「わたしの道元さま」立松和平氏 講演より