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禅のお話〜わたしの道元さま〜
立松和平「わたしの道元さま」No.7
僕はこの芝居の中で、役者さんとか、演出家とか、舞台をつくる大道具の人たちに言ったのですが、もう一人の主人公が自然です。例えば、道元禅師と波多野義重とか、懐奘さんとか、いろいろなお坊さんが、永平寺の部屋の中で話をしている。カッコウが鳴いて道元禅師がお弟子さんに、障子を開けさせる。障子を開けたら、障子だけが開くのではなく、ずっと屋根まで上がってしまうのです。芝居だからそのくらいのフィクションはやるのですが、ばあっと柱だけ残って、どういう場所にいるかということがわかる。それは初夏の緑深い、すがすがしい永平寺の中、自然の真っただ中で、目の醒めるような山の息吹の中です。こういうところに永平寺があるのだ、自然の中にあるのだということを見せることができる。 実際にそういうことはないのです。障子を開けたことぐらいで屋根まで飛んでいったら、家は壊れてしまうけれども、芝居だからそのぐらいできるわけです。 鎌倉から帰ってきたときには、雪の永平寺。どうしても歌舞伎座の人は、永平寺といえば雪という固定観念があり、雪の永平寺を美しくつくりたいというのです。完全に山の自然を再現するようにしたいという強い思いがあり、杉林の中の伽藍があって、そこで道元禅師がお芝居をするという場面を設定いたしました。 東京の歌舞伎座は2千人入ります。自我自賛みたいだけれど、幕が上がると、特に雪の永平寺のときには、観客席から溜息がふうっと出て、そのあと拍手が起こって。舞台装置に拍手が起こったのは初めてだと、みんな喜んでいました。
「道元の月」では永平寺に伝わる一つの物語を、僕は使いました。玄明の物語です。玄明という人物は、一緒に道元禅師と鎌倉に行きました。そして荘園を北条時頼からもらってきて、それをみんなに自慢した。そうしたら、道元禅師は怒って破門したと。しかも坐禅する台である単を取り払い、しかもその下の土も何尺か堀り捨てたというほど怒ったと、伝わっている。そして、追放されたわけです。
道元禅師というと、月のことを考えるのです。芝居の中にも書いたのですけれども、月光が降り注いでいます。月光というのは、どれを選ばず、すべてを包んで、光は万象のものだと、『正法眼蔵』の中にあって、僕は大好きなのです。万象とはすべての現象です。月光というものは、すべてを包んでいる、万象を包んでいるわけです。 例えば手を差し出せば、この手の中に月光は満ちるわけであります。しかし月光を掴もうとすると、指の間からみんな漏れてしまって、月光は掴めない。しかし、何を差別するわけでもなく、区別するわけでもなく、月光は満ちているわけです。仏の教えをいうものはこういうものだという。「光は万象の具」というのは、どういう意味かと言えば、月光が全部の現象、この世のできごと、我々がやること、心の中すべてを呑んで、包んでいるという意味であります。これは道元禅師の根本的な思想だとおもいます。何にも隠されていないということです。月の光は我々すべてを包む。我々ばかりではなく、川の水も木の葉も虫も鳥も、生きとし生けるものすべてを包んで、何も隠していないということです。 もっと言えば、『正法眼蔵』の中に一貫して流れている思想というのは、真理というものは何も隠されていない。この一瞬、我々の目の前にすべて顕わになって「ある」ということです。過去も現在も未来も、僕たちの目の前に全部「ある」。実際にそうでしょう。人間というものは、いろいろな自然現象を見て、真理というものを一生懸命見ようとするわけです。しかし人間は、まだまだわからないことはいっぱいあるわけです。いっぱいあって、それを解読するというのが、自然科学などの営みです。 道元禅師風に言えば、何も隠されていないのではないか。何にも隠さずに、すべて顕わではないかという考え方です。すべて顕われ、目の前にあるのに、それを知らない我々は、真理がここにあると気付かない我々は、哀れむべき存在であるという考え方だと思うのです。ですから、手の中にいっぱいに満ちる月光は、一つの真理の象徴です。
例えば『道元の21世紀』という本は、奈良康明先生や東隆真先生たちと一緒に書かせてもらったのですけれども。この、「目の前にある。何も隠されていない」という思想は、「現成公案」という言葉で言えばいいと思います。「現成公案の巻」は『正法眼蔵』の中にあります。この巻が僕は大好きで、何度も何度も、たぶん百回くらい読んでいると思うのですが、それでもわかったとは言えません。僕は、やさしい言葉で翻訳した一説を少し読みます。 「人が悟りを得るということは、水に月が宿るようなものです。月は濡れず水は破れません。月は広く大きな光なのですが、小さな水にも宿り、月の全体にも宇宙全体も草の露にも宿り、一滴の水にも宿るのです。悟りが人を破らないことは、月が水に穴を空けないと同じことです。人が悟りの妨げにならないということは、一滴の露が天の月を映す妨げにはならないのと同じです。水が深く見えるということは、月が空高くにあるということです。悟りがどんな自説見られたたかということは、大きな水か小さな水かを点検し、天の月が広いか狭いかを考えてみればいいのです」 つまり、一滴の水があって、真理そのものである月が、その水に映りますが、その月は水に濡れない。水は月を映しても破れない。我々の心もそうです。真理を宿しても、我々の心は破れない。真理は濡れない。そして月というのは大きな光だということなのだけれども、小さな水にも宿り、月の全体も、宇宙全体も、一滴の露にも宿るということです。草の上に付いている一滴の水滴に宇宙全体が宿る、月全体が宿る。つまり、この中に真理が全部、宿っているということです。 この一滴の草に付いた一滴の露というのは、我々のことです。我々は一滴です。その中に真理が宿るよ、とおっしゃっているわけです。しかも、それは我々が真理を宿したところで、我々はべつに壊れたり、何もしない。何の現象もないけれども、だけど我々は全宇宙と対峙するぐらい大きい存在になるのだよ、ということが、道元禅師が教えてくださっているわけです。 悟りというのは、僕はそのように、一滴の水であるところの自分が、宇宙全体を宿す。月全体を宿すということではないかと思うのです。ですから、小さな人間が大きな宇宙を宿すということは、何よりも我々人間の生きる励ましです。我々は決して小さくないです。かといって、大きいのだと言って増長しては話にならないけれども、しかし全宇宙を宿すほど我々は深い。 それを宿すためには、水が美しく澄んでいなければ、月をそのまま宿すことができないように、我々心を、月を宿すということは、我々の心を美しく澄ませることが必要だいうことだと思います。なかなか難しいことです。 芝居の話をしながら、迷える修行僧が、「心の中に月を宿して帰れよ」というようなことを、道元禅師に言われて、泣きながら師に背中を向けてとぼとぼと歩く。そして月の光が会場に満ちていくという場面で芝居は終るのです。今日は芝居のお話をしながら、芝居ということで道元禅師のことを語ろうという気持ちで、話させてもらいました。 京都で、この次にやることになっていまして、『道元の月』というタイトルで、まだ先ですが十月にやります。僕もそのころ京都へ来て、恥ずかしくないものをちゃんと、また東京とは違う芝居をつくって、道元禅師に恥ずかしくないものをやっていきたいと考えています。 道元禅師は京都から追われたというと、京都の方はおもしろくない言い方かも知れませんけれども、歴史的にはそうなのです。ですから京都に戻ってくるということは、僕自身にとっては、何か意味があるような感じがします。道元禅師のあれやこれやを時間内に話をさせていただきました。いくらでも話はあるのだけれども、今日はこのくらいにしておきます。 どうもご静聴ありがとうございました。 (終り)
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