
立松和平「わたしの道元さま」No.6

『正法眼蔵随聞記』の中にいろいろなエピソードが出てきます。あのころのことを調べると、永平寺が物質的に非常に困窮してきた様子が、いっぱい感じられるのです。『正法眼蔵』の中にも、お米がない。なければ粥にすればよいのではないかということが書いてある。粥にもできない。重湯をつくればよいのではないか。重湯にもならない。お湯を沸かして、それを飲んで坐禅をしていけばよいではないか。本当の真理を求めることのほうが、お腹一杯にすることより大切なんだということを、繰り返し繰り返し書かれている。
本当に困窮していたんですね。着る物と食べる物というのは、仏に帰依しているものは生まれながらに持っているのだ。何も食べる物、着る物を得るために、つまらない努力をする必要はない。持って生まれたのだということを、繰り返し繰り返し説かれている。相当に経済的に困ってはいないのかも知れませんが、裕福ではなかったと思います。
道元禅師のいろいろな書かれたものを組み合わせて、ストーリーをつくっていきます。
永平寺にはもうお米がない。そこへ 飢え死にしそうな乞食の女が子どもを抱いていてやって来る。優しい雲水がいて、(これは勘九朗の息子の勘太郎がやったのですけれども)その女に最後のお米をやってしまったわけです、見るに見かねて。そうしたら、みんながが怒る。優しい雲水は玄明という若いひとです。
玄明というのは、永平寺に伝わっている名前ですけれども、みんなが玄明を怒るわけです。「どうして、これでは修行ができないではないか。お腹が減って坐禅もできないではないか」と糾弾する。そこで道元禅師がお話になる。
これは『正法眼蔵随聞記』の中に書かれているエピソードですけれども、建仁寺で本当に困った親子がいて、飢え死にしそうな親子がやって来た。そのときに栄西禅師は、仏像の光背をつくろうとし用意していた銅(あかがね)をそっくりくれてやってしまった。それで、周りのお弟子さんたちが師匠をなじったわけです。「これは仏のものだ。仏のものなのに、どうしてやってしまうのか。非常に問題ではないか」と怒るわけです。
これは、道元禅師が聞いた話として書かれていることです。そのときに栄西禅師はこうおっしゃった。「仏は飢えた虎の前で、飢えた虎の親子に対して、自分の身も骨も血も全部あげたではないか」。これは捨身飼虎の話です。法隆寺の玉虫厨子にある捨身飼虎。お釈迦さまのものでは、ジャータカというものに描かれている話です。
「仏はそうやって、自分の身も骨も血も全部を供養したではないか。自分は仏像をつくるための銅をあげてしまった。しかし仏像というのは器物・金物というように、それは物なのだ。ただ本当に大切なものは、仏の教え、真理というものだ。しかし、仏のものを他人にあげてしまったために、自分が地獄に堕ちるであろう。それはわかっている。それでよいのだ、それで。何でも供養して助けてあげるのが仏の道ではないか」ということが、『正法眼蔵随聞記』の中に道元禅師が話された物語として書かれているのです。
そんな話をして、その玄明を、他の攻撃的な雲水から救ってやるというエピソードも書いたのです。そして好んでか好まざるかわからないですが、はからずも苦しい権力の座に座っている時頼を救いに行く。
鎌倉には行きたくはないです。そんな難民のまちで、行くのに夜盗に襲われるかもしれない。武力的には何の力もないわけだから、何かがどんな災難があるかもわからないし、お弟子さんたちも行かせたくない。しかし菩薩の行い、お釈迦さまは、自分の骨も血も全部、飢えた虎に捧げた、仏はそのように菩薩の行いをしようという思いで、戦乱の血生臭い鎌倉に行くという話です。
何人もがいろいろ助けてくれて、そういうようにできていったんだけれども、そのストーリーが浮んで、なんとなくうまくまとまってきたのでよかったなと。いろいろなことを、小さいエピソードはいっぱい積み重ねてきました。

時頼は、家臣や親の前では非常に元気です。それは源氏の大将、鎌倉の大将ですから、そんな気弱なことはできません。非常に強いのだけれども。みんなの前で、「とにかく道元禅師が来てくれて、とてもうれしい。よく来てくださった。これで自分たちは武士のための寺を鎌倉につくろうと思う」。大きな禅寺をつくる。これは建長寺のことです。建長年間です。建長寺をつくろうと、それでそこの住持に道元禅師になっていただこう。たくさんお坊さんを集めて、思う存分修行していただこう。それで米がないとか飢えたということは、もう一切ない。
普通、俗人だったら、それでうれしいわけです。よかった、よかったとなるけれども、道元禅師は、すべてを断るのです。布施というのは貪らないことである。へつらわないことである。『正法眼蔵菩提薩唾(変換不能)四摂法の巻』に書かれています。貪らない、へつわらない、真理の前に従順になる。これは道元禅師の根本的な教えです。
大きなお寺に住持になり、鎌倉武士の庇護の下に入れば、それは次の米にこと欠くことはないでしょう。そんな貧しくお湯を飲んで坐禅してなければならないようなことはないでしょう。しかしそれはへつらうことである。貪ることであるという、強い信念が道元禅師にはあるのです。結局、武士のための禅のお寺というのは、道元禅師は断る。でも建長寺はできる。
蘭渓道隆という中国から来たお坊さんが、第一回目の、初代の住持さんになっていくわけです。ありえないことですけれども、歴史が一つ違っていれば、道元禅師が建長寺の和尚さんになっていた可能性は充分にあるわけです。しかし、一切のお申し出を道元禅師は断るわけです、ただ救いに来たわけですから。
またこれも芝居になるのですけれども、時頼は道元禅師と二人で話したい。心の中の叫びを聴いて欲しいというので人払いをして、道元禅師と話すわけです。そして自分の苦しみを打ち明ける。
「この場所は恐ろしい。ひとつ間違えれば、たくさんの人が死ぬ。もし自分がここをどけば、たちまち変って出るものがあるだろう。そのたびにまた乱が起こり、たくさんの人間が死ぬのだ。この場所をどくわけにはいかない」
しかし、ここへきちっと座って、ここでいなければいけない苦しさを縷々と訴えるのです。権力の座というのは苦しいと思います。僕は座ったことがないからわからないけれども、想像するのには、やはり苦しいと思います。一家のお父さんだって苦しいのだから、たいへんだと思います。
「どうしたら救われるだろうか」、心の底から道元禅師に問いかけた。それは道元禅師は何を言うかはわかります。『正法眼蔵』やいろいろな著作を読み、曹洞宗としての教えを考えればいい。わかることです。

つまり、「あなたは執権の座にあって、何にも離さないで、両手でぎっちりといろいろなものを掴んで、握りしめている。そしてその上に、またなお自分の安寧、平安を掴もうとしているわけです。何かを掴むためには、握っているものを捨てなければ、掴むことはできません。放下といいます。ところが離さないで、なお掴もうとする執着した上に、また執着するから掴めないのであって、捨てればいいのではないか」
これは一目瞭然のことです。その場所が苦しいのだから、その場所から降りればいいではないか。それは因果が全部変る。これはあまりにもわかりやすいことです。しかし、救われるためにはそれしかない。
しかし時頼にしたら、「この場所を降りろと」いうのは、鎌倉幕府を滅ぼすことではないか。乱が起きるではないかという思いがある。でも「捨てなければ、あなたはいつまでもこの苦しみは逃れることはできない」と、本質的なことをおっしゃるわけです、当たり前のことです。
だけど時頼にしたら、あまりにも本質を突かれるし、できないことです。
それだけはしたくないということがあり、非常に苦しむ。
そして、刀を持っていますから、最後に抜き放ち、道元禅師を切ろうとするわけです。
これは芝居です。こんなことは実際にはなかったと思います。
それは時頼としたら、捨てろ、その場所から降りろということは、鎌倉幕府を否定することであります。だから、切ると言って刀を構えるのですが、そのとき(これはまた芝居ですが)道元禅師が只管打坐の坐禅をされるわけです。ずっと坐禅をする。
自然の山のような美しい坐禅の形をすれば、それは人間を説く完璧な姿となります。僕は、お釈迦様のような坐禅をしたその完全な姿、美しい姿に向かって刃は触れないという場面をつくりたかったわけです。
三津五郎がちゃんとできるかどうかが問題だったのですが、やはりさすが役者です。いい役者だと思ったけれど、もうずっと坐禅をされてきた老師みたいにすうっと坐禅をして、結伽伏座になって動かない。やはりそんな完璧な姿に向かって刀を振るということはできませんよね。それをその姿だけで納得されるという、非常に困難なことをやったわけであります。そしてうまく舞台がいったなと、僕は思っているのです。
そのときに、刀を振り上げ切ろうとさえした時頼は、初めてわかるのですよ。自分が執着する、何も捨てないで、なおかつもっと別のものを得ようとしたという愚かさを知るわけです。しかし、やはりその場所を、いまでは「辞めた」と言って捨てることはできない。
これは我々がそうです。例えば一家のお父さんがそうです。会社に行きたくないなと思いながら、やはり行かなければならない。なぜそれを我慢しなければならないとか、いっぱいあるわけです。それを耐えて耐えているのが、我々の現実です。

つまり時頼は、我々俗人のチャンピオン、代表者だと、僕は思うのです。しかしわかるわけです。道元禅師のおっしゃることが、よくわかる。ですから、「いま降りたら、たちまち乱が起きてできないけれども、できるだけ早くそうしましょう。そのように私は生きたい」と時頼は言う。時頼は中村橋之介がやったのだけれども、なかなかなものでした。
そして実際に史上の北条時頼は、二十代後半のときに執権を息子の時宗に譲っているわけです。次の代の人に譲り、お坊さんの姿をして、諸国漫遊したというお話になっていますので、ストーリーはつながっていくのです。
そういう芝居的なストーリーを使いながら、道元禅師の教えを、我々に向かっての教えで、高邁な教えというのはたくさんあるのだけれど、しかし誰が見てもわかりやすい教えを、芝居のストーリーの中で説いていこうというのが、僕の考えであります。
我々は、やはり時頼と同じように執着している。執着してないようでも、やはり執着している。しかし自分だけではない、社会の中にいるから、「もうここの場所は嫌だ。お父さんの座は辛いから嫌だ」と、ぱっとどくわけにはいかない。お母さんの座も「嫌だ、損だ」と言って、ぱっとどくわけにもいかない。そういう中で暮らしているのが現実だと思うのです。
簡単にはいかないけれども、道元禅師は本質の中にいらっしゃるわけです。だって、摂政関白の血筋を引いた人ですから、これは北条よりも家柄としてはずっと上でしょうね。そういう人が全部を捨てて修行者になっている。雲水になっているわけです。浮く雲のごとく、流れる水のごとく、とらわれもなく生きているから、道元禅師には一切、悪しき因果はありません。ところが時頼には、ものすごい因果が被ってくるということなのです。ですから、道元禅師のいろいろな残された書物の教えと、やはり実人生、道元禅師の人生を検証していくと、本当に何の矛盾もない話になるのです。
(5)
1/2/3/4/5/6/7
(7)