
立松和平「わたしの道元さま」No.5

なぜ鎌倉に行かれたのか?これは『正法眼蔵随聞記』にもいろいろな書かれているけれども、鎌倉から人が来て、どうぞ来てくれという誘いがあった。「本当に仏法を教えることに、自分はやぶさかではないけれども、求める心があるならば、千里の海も山も越えても、ここに来るべきではないか」というようなことが書かれている。
実際にそういうふうに道元禅師は考えだったしょうね。そしてずっとお世話になった波多野義重という人物が、「鎌倉に来てください」という一生懸命に招聘しているわけです。あれだけ恩のある人物の頼みというのは、無碍に断れるものではありません。しかし自分の師匠の如浄禅師の、国王・大臣に近づくなという教えも絶対であります。これは本当に苦しい選択です。しかし結果的に我々は、道元禅師が鎌倉へ行かれたことを知っています。道元禅師の、「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷 すずしかりけり」。あの歌は鎌倉でつくっているのです。確かに鎌倉に行かれているのです。
その師の教えと実際の行動と、どのように整合性を持たせて、いまの時代に語りうるかというのが、僕に科せられた問題であります。ただ波多野の、お世話になった人の頼みだから、断りにくいから行ったというのでは、あまりにも俗っぽい。しかし、先生の如浄禅師の教えを守るならば行かない。しかし実際に歴史的には行かれている。どうしたらいいか。歌舞伎だったら、「さあ、さあ、さあ」で終ってしまうのですけれど、僕はそうはいかないわけです。結局、悩みに悩みました。
そして芝居の中では、ほととぎすが鳴くのです、「きゃあきゃあ」と。ほととぎすは口の中が赤いのです。ほととぎすは血を吐く思いで鳴くと、三津五郎は言うのですけれども。「自分は時頼殿の心からの叫びを聞いたように思った」というようなことを言っている。
つまり、時頼は救ってほしいわけです。それは因果が満ち満ちて、ご先祖さまたちがいっぱい因果の種を蒔いていて、それが執権になった途端、全部自分のところに押し寄せるわけです。しかも、それは政治のひりひりするような舞台です。ひとことで言えば、何人もの首が飛ぶような、何か厳しいところ。しかしその座は安泰なものではない。いつもそこに座りたい人間がたくさんいる。ちょっと気を緩めれば、他の者が、そこに座ろうと狙ってくるという歴史があるわけです。しかしそこを自分が捨てれば、また乱が起きるだろう。人々が苦しむだろうということもわかっているのです。

ここからは僕の考えた世界、完全なフィクションですけれども、道元禅師が鎌倉へ行かれたことと、あの時代のことを考える。時頼が21歳ということ、それから時頼の人生を考えます。
時頼は、『鉢木』という謡曲のモデルになっている人物です。ようするに、諸国巡歴をした人です。お坊さんの姿に身をやつし、人々の暮らしを見ていったという伝説が残っています。本当にやったかどうかわからないけれども、そういう伝説が残っています。
非常に困窮している佐野源左衛門という人物が、旅の僧に身をやつした時頼を家に泊めてもてなすのだけれども、薪を燃やすものもないので、最後に鉢の木、盆栽の梅鉢の木を囲炉裏にくべて、旅の僧をもてなします。そのときに何か鎌倉にできごとがあったらば、痩せ馬を飼っているから、その馬にうちまたがって、「いざ鎌倉へ馳せ参じる」ということを語るという物語です。
そのあと時頼は、みんなを試すために全国の武士を招集する。真っ先に痩せ馬にまたがった佐野源左衛門が実際に駆けつけてきて、源左衛門に論功行賞したという物語が残っています。本当か嘘かわからないけれども、しかし何にも根拠のないところに物語は立ち上がりません。
実際に時頼という人物は、鎌倉の中では名君と言われております。人々の気持ちを知って、また知るためにお坊さんになって諸国を歩いたという。鎌倉時代に北条の名を持った執権が、そういうことをしたのは時頼たった一人です。だからとてもいい人だったと思うのです。そういうふうになるためには、何かのはたらきかけがあるはずであります。
お母さんの松下禅尼という人は、障子を破れたのを自分で繕って、質素倹約を息子の時頼に教えたという話が、戦前の修身の教科書には出てくるそうであります。そういう日本史の中でも、やはり優れた名君として伝わっているのが、北条時頼なのです。
しかし実際に、21歳で執権になったばかりのときには、三浦一族を血の海の中で一人残らず滅ぼしているわけです。連中が反乱を起こしても、片っ端から平定し、子どもは殺す、奥方は尼にする、もしくは殺す。そういう厳しい時代に生きた人間だから、ただの善人の人物というはずはないわけです。しかし時頼には、自分の居場所を、居心地のいい場所だとは思えない。
いま、小泉さんの顔を見ていると、白髪が増えたなとか、痩せたなとか、目つきが悪くなったとか、みんなが思っていると思うのです。それは苦しいだろうと思いますよね。でもみんな、あそこに座りたいのだから、不思議だなという感じはします。北条時頼がいた執権の場所などは本当に因果に満ちた厳しい場所でしょうね。
そして時頼は一生懸命、道元禅師に「助けてくれ、救ってくれ、自分はここにいることは、どうなのか、教えてくれ」と、一生懸命、道元禅師に呼んだのだと思うのです。これはもちろん想像です。道元禅師がわざわざ行く理由は
他にないのです。それは、すごい名僧だという噂は流れていたはずです。ところが、越前の山の中に永平寺を建てて間もないころです。籠もっていて出てこない。「自分を助けてくれ」という叫び声だったわけです。波多野の言うことなら聞くだろうという、そんな考えもあったと思います。
だから芝居的には、ほととぎすが鳴いて、道元禅師が、「時頼殿は自分を一生懸命に呼んでいる声のように思った、自分を助けてくれという一生懸命に救いを求めている人間を救いに行くのは、菩薩の行いではないか。それは仏が教えてくれたことではないか」。そうお思いになるのです。
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