
立松和平「わたしの道元さま」No.4

曹洞宗という宗門は大きな宗門で、ずっと坐禅三昧、本当に坐禅三昧の修行をされている方たちがたくさんいらっしゃる。その筆頭は宮崎禅師だと思います。宮崎禅師はいまは103歳になられたようです。何度もお話をしたことがあるのですが、前に坐ると山のような人で、がっとお坐りになっている姿は本当に岩を前にされているような方です。しかし宮崎禅師は毎朝、永平寺で3時半ぐらいから坐禅をされているという話を聞きました。
宮崎禅師のような、そういう老師たちがたくさんいらっしゃるのです。その人たちがもし歌舞伎座に来て、僕が書いた道元禅師を見て、なんだこれはと言われたら、もう立場がないわけで、消え入るよりしかたがないわけです。
また宗門のお寺がたくさんあって、檀家のおじいちゃん、おばあちゃんたちが、道元禅師さまに会おうということで、たくさんいらっしゃる。そのおじいちゃん、おばあちゃんたち、いわば善良な庶民の人たちが観て、ああよかったなと思ってもらわなければいけないわけです。
それから歌舞伎座というところは、8割ぐらいは普通の歌舞伎ファンが来るわけです。上等そうな着物を着て、幕の内弁当を食べて、楽しそうに芝居を見るという人たちの層が一番大きい。8割ぐらいがそうです。
適当に三つの人たちの話をしましたが、禅の修行をされている一途の老師と、檀家のおじいちゃんとおばあちゃんと、ちょっと白粉臭いお化粧されている歌舞伎ファンのおばちゃんと、3人とも満足させるということができるのだろうかと思ったのです。はっきり言って無理だと思いました。絶対これは無理だと。
あまり易しくしてしまうと、なんだこれはと言われてしまいますし、あまり難しくし過ぎても、なんだこれはと言われてしまう。
みんなが興味をもってみてくれる時代はどこだろうと考えました。

48歳ぐらいのときに鎌倉に行かれている、鎌倉行化という話です。
道元禅師のお師匠さまの如浄禅師は、国王・大臣に近づくな、政治、権力者に近づくなということは大切な教えになっている。これは道元禅師に対する戒めであり、そのとおりに道元禅師は生きてこられた。ですから京都にいなかったわけです。追放されたようなかたちであったけれども、越前の山の志比庄という、いわば田舎の山の中に籠もって一途に修行され、権力には近づきませんでした。それはいまでも、そういう教えは守られているわけです。
それは絶対的な教えであるにもかかわらず、道元禅師は一度だけご縁で鎌倉の執権北条時頼に呼ばれて鎌倉に行っています。これはいったい何かということです。これはいろいろな賛否両論があるので、本当はこういうところは避けたほうが僕自身の小説家としても無事なのですけれども、しかし、そういう無事ばかり考えていては、物語はできません。道元禅師はなぜ行かれたのかということを考える。
このときだけですね、唯一、権力者に近づいたのは。近づいたのか、それは言葉のあやで。でも、距離的に鎌倉に行って、目の前に、時の大権力者である若干21歳の北条時頼、その男と向き合ったことは事実です。どうしてそういうことをされたのかということは、一切説明はない。ただ行かれたという事実だけがあるわけです。ここをやろうと、僕は思ったのです。
本当に難しいことです。北条時頼の家臣に波多野義重がいました。波多野義重は京都の六波羅探題のナンバーワンではなくて、もう少し下なのですが、侍だったわけです。北条家家臣・波多野義重は、最初から最後まで道元禅師の庇護者です。一生懸命にサポートした人物であります。道元禅師に帰依する波多野義重がいなければ、今日の曹洞宗は、たぶんなかったのではないか、と僕は思います。
京都で禅を広めていくと、当然のこととして叡山からものすごく迫害を受ける。そして京都から放逐されていくわけです。そして行くところは、波多野義重の領地です。波多野義重の領地の、越前の志比庄、いまの永平寺のあるところであります。いまでも田舎ですが、当時は本当に田舎だったでしょう。その山の中に入って行く理由がないわけではなくて、当然、波多野が呼んだわけです。
その波多野義重というのは片目だったのです。それはなぜかといえば、承久の乱かどこかの戦争で、片目に矢が目に刺さるわけです。そのとき、そのことにもめげずに大将の北条なにがしに、戦闘の状況を報告に行く。大将がえらく感心して、論功行賞され、越前の志比庄を与えられたという人であるわけです。
彼は一貫して道元禅師に帰依する、身も心も本当に道元禅師が好きだったのでしょうね。そして京都から越前に行くときも、ずっと警護をしたと伝えられています。

武士の政権が鎌倉にできてきた。しかし武士の政権は安定しません。いつも殺し合いです。血なまぐさい風が吹き荒れていた。『吾妻鏡』を読みますと、あのころは天変地異が多いのです。火山が爆発する、地震が起こる、そうすると津波が起こる。地震で鎌倉の神社仏閣、一柱も余さず倒壊したと書いてある。それから干魃、長雨で不作、凶作になる。凶作になると、今度は田舎から難民が都会に出るしかないですから、鎌倉のまちは難民で溢れたとなっています。そういう時代は、例えば日蓮という人物が現れて辻説法を始めたりという、宗教が非常に求められていた時代でした。牛馬が道で死んでいるとか、本当に散々たる状況だったわけです。
このとき、北条時頼21歳であります。北条時頼が執権になった途端、宝治合戦という、三浦の乱という乱が起こります。三浦の乱とは、三浦半島の領主だった三浦一族というのは、頼朝と最初から旗揚げに参加している鎌倉幕府の名門中の名門です。その三浦一族と北条一族が合戦になってくる。いわば、両雄並び立たずというか、三浦が力を付けすぎて、戦端が開かれてしまうのです。
「いざ鎌倉へ」という侍たちの言葉があって、それは政権を持った人のところに鎌倉の侍は助けに行くという構造なわけです。全部、北条のほうに助けに行くわけです。それで、当時の名門の三浦一族は滅びます。その前に畠山とか比企とか、ずっと頼朝と生死をともにしてきた武将たちが次々に滅びていくのですが、そのとき三浦一族は最後に、鎌倉の中で戦争をやる。当然、火災が起きる。最後に5〜600人の三浦の一族が法華堂というところに籠もったと、これも『吾妻鏡』に書いてあります。
法華堂というのは頼朝の御廟です、お墓であります。そこに最後に籠もって切腹して果てるわけです、5、600人が。時の三浦の侍大将がいて、家臣の誰かが、「この法華堂に火を放ち、その隙に我々は切腹して果てよう」と言うのですが、彼はこう言います。「ここは頼朝の鎌倉殿の聖地である。火をかけてはいかん。自分たちはいまここで滅びるけれども、それは自分たちの祖先がいっぱい悪い因縁を積んできたからである。罪のない人をたくさん殺し、そういう悪い因果を重ねてきたために、いま我々の身に因果が報いて、ここで果てるのである」ということを言うわけです。
そして、「我々を滅ぼしたという因果は北条殿に報いるであろう。北条もいつまでもあのままにおれない、必ず滅びる」と言って、全員が切腹して果てる。侍大将の弟の三浦泰村が、自分の顔をわからないように、刀で顔を潰して死んだと書かれている。その血が飛び散って頼朝の慰霊にかかったという、生々しい描写が、これも『吾妻鏡』あるのであります。
そうやって、まさに末法の世の、そういうドラマがあった翌年、道元禅師は鎌倉へ行かれている。鎌倉は物見遊山に行くようなところではない。戦場、戦争の跡が生々しい、本当に瓦礫の山、廃墟のまちだったと思います。そこに道元禅師が行かれているわけです。そこを芝居の舞台にしたわけです。
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