
立松和平「わたしの道元さま」No.2

道元禅師といえば『正法眼蔵』。非常に難しいご本です。日本語の文学者の一人としても、日本語がここまで到達したかと思わせるような、峨々たる山脈です。一つの山ではない峨々たる山脈。富士山がいくつも連なっているような山脈であります。
その書物を暇があれば目を通すようにして読み続けています。しかしわからない。わからないことがあまりにも多いのですが、わからないのも臆せずに読み続けております。
僕はこのように思います。少し前に、僕はイギリスのロンドンの公園を歩いていて道に迷いました。広い公園なのです。ピクニックができるような広い、芝生と原っぱみたいな広い公園で、自分がどこにいるのかわからなくなったのです。
そして道を歩いていくと、やがて地図が出てきました。鉄板に地図が書いてある看板がありました。その地図の道の中にぽつっと赤い点があり、そこが現在地です。日本語なら「現在地」と言いますが、英語では「You are here」と書いてあります。「お前はここだ」というのです。「You are here」。親切です。「お前はここだ」と書いてあるから、自分はここにいるのだと思い、なんとなく全体がわかりました。
それから先へ先へと、一本道ですから歩いていきました。またやがて看板があり、赤いポチがありました。同じ地図で、印刷したような地図で、そこに赤いポチがあって、その赤いポチは移動しておりました。そこに移動したところに「You are here」と書いてありました。僕は、その何分間か前の看板から次の看板まで、テクテク歩いてきたわけです。そして現在地が変わったわけであります。
僕はそのとき、はたと気が付きました。我々はいつも歩き続けている。諸行無常ですから、いっときも立ち止まることもなく、歩き続けているわけでございます。そして自分が立ち止まっているつもりでも、時は流れていく。諸行無常です。どんどんどんどん時は飛び去っていく。ですから立ち止まっていても、一箇所にいるというわけではありません。我々は、そうやって人生の道を歩いているわけです。人生は旅だと。あるとき、いまここにいるから「現在地」です。
あと何年か後に、例えば3年後に同じ場所にいるかというと、それはない。常に我々は変わっているわけであります。その変わっていることを認識することが必要なのではないかと、僕は考えます。
しかし、その変わっていることを認識することに、どのようにしてそのことが認識できるかという問題がある。自分はいつもこの一点に立ち止まっているわけです。点で立ち止まっているわけです。しかし、こう動いて行ったという痕跡を示すためには、僕が公園で見たような地図が必要になるわけです。その地図をどうやって見るか、何をもって地図とするかということです。僕にとっては『正法眼蔵』が地図です。『正法眼蔵』自体は何も変わらずに山脈としてそびえているわけです。その中を僕が迷って、ちょろちょろ歩いているということです。
3年目にまったく同じ本で、同じ文章、同じ活字で読むわけです。3年前には何かわからなかったことが、いまわかるということは、しばしばあります。
僕は55歳になりましたが、40歳ぐらいのときに『正法眼蔵』を細々と読み始めました。40歳のときに全然わからなかったものが、いま少しはわかるようになります。そういうふうに一生かかって読み続けている本というのは、いつもいま「現在地」、人生の「現在地」、「You are here」を示してくれます。お前はここだよという赤い点を教えてくれるのです。『正法眼蔵』は一生懸命に取り組んでいる本です。

僕は、学生のころインドに旅をしました。中村元先生が翻訳された『ブッダのことば』という岩波文庫の本をポケットに入れて行きました。『ブッダのことば』という本は非常にやさしい日本語で、誰にでもわかる、難しい単語なんか全然使っていない、お釈迦さまの言葉として書き留められていた断章です。詩のような短いフレーズです。しかし、やさしい言葉で書かれているが、内実は深いという。本当に辞書を引かなくては読めないような難しい言葉はほとんど使われていない。読めばすらすらと読める。ただ内容はあまりに深いので、それを理解しきったとは、なかなか言うことができません。
つまり、僕は20歳のころに一生懸命に読みました。しかし30歳でまた同じ場所を読めば、また趣きが変わってくる、違ってくるわけです。
『正法眼蔵』は本格的に読み始めたのは、そのころよりずっと高年齢になってからですが、それでも同じことです。僕はいつも変わっていました。みなさんも同じです。いつも変わっていますからで、そのときの『正法眼蔵』がわからないからといって諦める必要はない。そのとき、その場所の気持ちで読めばいいのだと思うのです。
ですから『ブッダのことば』を僕は、これもまた自分の座右の本として、なるべく持って歩いて、折りにふれ読み続けていくわけであります。
『正法眼蔵』も、本当にこれをわかったなどとは、一生言えないだろうと思いながら読んでいます。もうわかった、というのは嘘だと思います。そんなにわかるものではないけれども、すこしずつわかってくるという実感はあるわけです。それが僕は、人生の「現在地」を確かめてくれる偉大なる書物だと思います。
そういう書物を持つということは、人生の幸福です。いつも迷っている。この虚空の中に放され、自分がどこにいるのかわからないのが我々の常ですよね。しかし、その書物を読むことによって、自分の「現在地」がわかってくるということです。
僕は一生、この『正法眼蔵』、また『ブッダのことば』を読み続けます。?
完成した先のことはまったくわからないけれども、やはり小説を仕上げるまでいつも「次はどうしようか」と考えております。作者としては頭から離れません。これがまた僕の修行だと思っているのです。こういう修行ができるのは、そういう機会を与えられたことが非常に幸福だと考えているしだいでございます。
50年前の700回大遠忌のときに、僕と同じような立場で、小説を宗門から依頼されたかたちで書いた作家がおられました。里見とん(変換不能)さんです。大作家です。僕なんか及びもつかない文学史に名を留める大作家ですが、なかなか小説を仕上げることができませんでした。
岩波文庫で『道元禅師の話』というエッセイが読むことができるわけですが、『御一代記』を破綻なく仕上げるということが本当にできるのだろうか。どこかで失敗すると、やはり因果ですから、必ずその通りにいかなくなる。
一枚の布を織るのでも、縦糸がしっかりしていなければ横糸も入りません。いつもその時点で完璧になるように全力を尽くしていかなければ、道元禅師の『御一代記』という一枚の布を織り上げることができないと思っております。
言ってしまえば、修行する、自分が精進するということで切り抜けていくしかしかたがないわけです。小手先でどうこうできるような世界ではないわけです。そのようにして何年間か、毎月毎月、実際の作業としては苦しみながらやっております。
(1)
1/2/3/4/5/6/7
(3)