
立松和平「わたしの道元さま」No.1

みなさんこんにちは、立松です。
去年は道元禅師の750年の大遠忌でした。いま司会よりご紹介いただいたとおりに、僕にはたいへんな役が回ってまいりました。それは、歌舞伎に道元禅師の話を上演できないかという話で、台本を担当しろということなのでした。
僕は、永平寺の機関紙『傘松』にずっと道元禅師の小説を書かせてもらっています。毎月20枚ずつ原稿を書いております。
道元禅師の『御一代記』というものを、生まれたときから、お亡くなりになるまで破綻なく書くことがきるだろうか?文筆家としては非常に厳しい素材、対象です。
例えば父母についてです。母というのは、藤原摂政関白家の松殿家の伊子という人物だというのは、名前だけはわかっています。父親というのは、久我源氏ですが、村上天皇の流れを引く久我家の通親という説と、通具という説とがあります。通親と通具は父と子です。父と子か、どちらかがよくわからないというのが現実なのです。
しかも、お互いの主張があるというのでしょうか、お互いに、それなりの論拠があります。
通具というのは、『新古今和歌集』などを編纂した藤原定家と同じように、非常に文学史上に名を残した人物であり、通親というのは、どちらかというと偉大な政治家だったのです。そういう父と子なのに、どちらが道元禅師のお父さんかわからないというのが、現実であります。ですから小説の作者としては、どのように書いても、どちらかから怒られるわけなのです。
僕は、母方が曹洞宗で、栃木県の宇都宮というところなのですが、あそこの和尚・方丈さんとはとても親しいので、「どちらか宗門で決めていただきたい。そうすれば、そのとおりに書きますから」と言うと、「そんなものわかるか」と怒られました。しかし、伝記作者としては、やはりそういう気持ちになるわけです。

5年くらい前に、道元禅師のご生涯が小説、文学作品にならないだろうかとお話がありました。これは宗門の一つの悲願(というと、ちょっと大げさですが)、望みであるということを永平寺から言われました。僕には正直いいまして、少し臆する気持ちがありましたが、『御一代記』の本に連載、毎月20枚ずつ書くということを引き受けました。実際に書いてみると、毎月20枚、修行しているような気分になります。これは自分の修行なのだということが、よく分かりました。
750年大遠忌の去年のうちに、小学館で本を出しました。それは、中国でお悟りをひらかれ「身心脱落」されるまでの、いわば青春の道元禅師の物語であります。ちょうど大ざっぱな計算をして、750年の大遠忌に間に合うなと思いました。
とりあえずは計算どおりに進み、僕は去年までにそこまで書きました。
最初はそこで終わるつもりだったのです。ちょうど大遠忌に間に合い、本になり、仕事が一つ完結する。
永平寺の機関紙の編集長さんは、たまに用があって東京に出てこられます。僕が25歳、身心脱落までは書かせていただきます。ちょうど青春の物語としてよろしいでしょうと言うと、編集長さんはうなり始めまして、「どうされましたのですか?」とお聞きしましたら、「越前まで来てもらわなければ、私らは困る」とお話される。永平寺ですから、越前まで、志比庄まで行かなければ困るというのは、よくわかるのです。
しかし、僕としたら10年かかります。「こつこつと書いて、ずっと途切れなく『御一代記』を書けば、10年は軽くかかりますよ」と言ったら、「そんなものやればいいじゃないですか!!」と言われ、ようやく5年が経ったというしだいでございます。気が長い話ですが、僕はこの仕事が好きです。
小説『道元禅師』というタイトルで書き上げましたが、単行本のときにずばり『道元』としてしまいました。中身は『傘松』で書いたものです。
ようやくいま連載では、京都に戻って来ました。中国の修行を終えられ、そして熊本経由で大宰府経由で京都に戻られ、建仁寺に入られた。そしてさてどうするかというところまで、ようやく辿り着きました。これからが本当に厳しい教えの内実に踏み込んでいく、厳しい作業になると思っています。
こつこつと道元禅師とともに、この5年間と、これから先の5年間を歩み続けるわけです。本当にいい修行をさせてもらっている。皮肉とかそういうことではなくて、本当にそう思っているのです。
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