過去の法話

萩の花と私の涙

大阪府 東光院 副住職 村山博雅 老師

私のお寺の境内には三千株の萩の花があります。萩は秋に咲く花で、夏はとても水を必要とします。三千株の水やりには、一人だと毎日四時間程かかります。

ご本山の修行を終えて帰ってきたばかりの頃、私は毎日一人寂しく、萩に水やりをしていました。「あーあめんどくさいなぁ‥」と思いながら、蚊に体中をさされ、いつも渋々過ごしておりました。夕方閉門してから水をやるので、本当にひとりぼっちです。「誰かと一緒だったら楽しいのになぁ」とか「誰かに偉いですねぇって褒めてもらいたいなぁ」とか思っていました。でもしっかり水やりをしないと怒られますので、花の様子を見ながら水の量を調節し、虫や雑草も取り除き、私なりに一所懸命がんばりました。

そんな日が二ヶ月ほど続いたある日のことです。萩の森の中に、目立つ赤い物を一つ発見しました。思わずその場所に駆け寄りますと、それはひとひらのうす紅色の萩の花びらでした。小さく可憐で、生き生きとした、ほんとに美しい花びらでした。じっと見つめていると、感極まって、いつの間にか涙が出てきました。水やりをしていたからうれしかったのではありません。ただただ泣けてきて‥心がただただ温かく充ち満ちて‥そんな気持ちを今もはっきりと覚えています。

仏教に、「同事」という言葉があります。同じという字に物事の事と書いて「どうじ」と読みます。意味は、事を同じくするということ、つまり自と他の間の垣根・境界を無くしてしまうことを言います。私たちが幸せに生きるための大切な教えです。

私の水やりはひとりぼっちではなかったんですね。私のそばにはいつも萩がいてくれたのです。水やりという仕事を通じて萩と会話して、毎日一緒に過ごしているうちに、萩がただの萩でなく、まるで私そのものとして感じられるようになっていったのだと思います。私と萩の間に境界がなくなってしまっていたのです。だから一所懸命咲こうとする萩の花の気持ちがそのまま私の涙となったのです。自と他がともにあることで一つになっていく‥そのようなあり方を同事と言います。

私たちはたくさんの人やものに支えられて生きています。でももし私たちがその存在に全く心を預けることもなく、ひとりぼっちで過ごしていたならば、そこには何の喜びも幸せも存在しません。かけがえのないものと一所懸命共同作業をしたり、心から一緒に過ごしたりすることで、本当の幸せが生まれます。最高の幸せを私たちに気づかせてくれる教えが同事なのです。

「萩の花と私の涙/村山博雅 老師」(音声:3分11秒)
2013/09/02