過去の法話

いい先生はできの悪い生徒

京都府 隠龍寺住職 児玉哲司 老師

学生の時に、家庭教師のアルバイトをしたことがあります。その時に気をつけたのが、生徒がわからないでいる時に、「どこがわからないの」と尋ねない、ということです。

人間、わからない時は丸ごとわからないものです。どこがわからないのか、と聞かれても、それすら答えられません。むしろ余計にとまどうばかりです。「どこがわからないのか」という言葉は、もうわかってしまった場所からのもので、わからない側からはとても距離を感じる言葉なんですね。

一口にいい先生といってもいろいろなタイプがあると思いますが、相手が何をわからないでいるのか、そこをわかってあげられるのが、いい先生の大事なポイントではないかと思います。はやりの言葉で言えば「共感力」とも言えるでしょう。

この共感力を発揮するには、先生の側は、ずば抜けて優秀である必要はありません。むしろ逆に、大事なのは、先生自身わからなくて悩んだ体験の引き出しがどれだけたくさんあるかということ、です。それから、その悩みが干からびてしまっていてはダメで、どれだけ鮮度よく生き生きとしているか、ということも大きいでしょう。

ちょっと奇妙に響きますが、いい先生であるためには、同時に自分が「現役の、できの悪い生徒」でもあった方がいい、ということになりますね。

このことは、仏さまと人間の関係にも言えるのではないかと思います。わからなかった体験が「いい先生」を作るように、できの悪い人間を中に抱えていることが本当の仏さまにつながるからです。

仏さまも、高いところから私たちに「何がわからないんだ」と尋ねるようなことはなさりません。それでは私たちとの間に、埋められない距離が生まれてしまいます。

むしろ、仏さまが本当の仏さまであるためには、私たち人間の、どうしようもない欲にまみれた思いに共感できないといけないのです。自分の中に欲のつまった引き出しを抱えた人、「できの悪い生徒」を抱えた人、実はそんな人間らしい人、共感力を持ったこそ、仏さまと呼ばれるにふさわしいのではないでしょうか。

このことを道元禅師さまは修証義の中で、「同事」と呼んでおられます。そうして、仏さまは私たち人間の姿をとって人間の中に現れるのだ、とお示しになっておられます。

人間らしさこそが仏さまに通じる。何と元気づけられるお言葉ではありませんか。仏とは、実は私たちの中に眠っている存在なのですから。

2006/01/13