過去の法話

布施の心

京都府 隠龍寺住職 児玉哲司 老師

布施という言葉を聞いて、皆さんどんなイメージが浮かぶでしょうか。
大抵の方は、不祝儀の包み、金額に頭を悩ませながら和尚さんに渡すあの包みを想像するのではないでしょうか。

まず、漢字を思い描いてください。布施という字は、布と施しという字を書きますね。この「布」という字、漢和辞典を引くと、実は「広げる、行き渡らせる」という意味なのだそうです。

身近な言葉で、例えば沢山の人に何かを配り届けることを、「配布」といいます。配る布、これはつまり、配って広げると言う意味なのですね。

それから、こうやってお話をすることを、布に教えと書いて、「布教」といいますね。教えを広める、という意味です。

布イコール広げる。そうすると、この布施という言葉ももうお分かりですね。そう、「施し」を「広げる」という意味です。布施というのは、そもそも言葉の意味からして、お寺さんだけでなくて、広く誰にでもするものなのです。

施しの中身も何でも結構です。ものであってもいいし、言葉や行動でも結構です。ただ大事なことは、見返りを期待せずにあげられるかどうか、どれだけ自分の欲を断ち切れるか、ということなのです。

私達はふだん、自分の色々な欲望と付き合って暮らしています。なかでも、「手放したくない」という欲はなかなか手強いものです。

小さな子を見ていると、どんどん新しいおもちゃを欲しがります。でも、古くなってもう使われないおもちゃでも、ほかの子に「貸して」と言われた途端に、急にそれで遊びだしたりすることがあります。もう、欲しくはないくせに、まだ手放したくないのですね。

私たち大人も、これほどあからさまではないけれども、やはり、このような欲をかかえています。例えば、気前よく物をあげたつもりでいても、お礼の一言が無かったり、評価してもらえなかったりすると、カチンときたりしますよね。

子供と同じで、こういうのは、あげたように見えて、実は、まだ手を放していないのです。お礼を言ってもらうまで離さない、そういう紐をつけて物をあげているのですね。紐の端を握っていては、自分の欲も一緒ですから、施しにはなりません。

道元禅師さまは、「布施というのは貪らない事」だ、とおっしゃっています。欲しい、手放したくない、そんな自分の欲を鎮めていくことに布施の価値があるということです。貪りの心を抑えて、広く差し出す。無心に差し出す。布施の功徳を受けるのは実は自分なのです。

2004/01/06