過去の法話

心に矢はうけない

京都府 隠龍寺住職 児玉哲司 老師

お釈迦様のことをさしてよく「お悟りを開かれた方」と申し上げることがあります。
この「お悟り」というのもよく聞く言葉ですが、さて、具体的にはどういうことをいうのでしょうか。

私達は例えば、急いでいてタンスの角に足の小指をぶつける、といったことがたまにありますね。もちろん飛び上がるほど痛い。
こんな時でも、悟られたお釈迦様は、痛みをお感じにならなかったのでしょうか。ひょっとすると悟りというのは、痛みだけでなく暑さ寒さ、日常の苦しみや不快な事全てを超越して、何も感じない状態を指すのでしょうか。

お釈迦様のお弟子の中にもそんな疑問を持つ方がいたようです。
そんなお弟子の質問に、お釈迦様は矢の譬えを使われて
「いや、自分も痛みを感じるのだ」
と正直にお答えになりました。

矢が飛んできて体に刺さったら痛いのは誰でも一緒です。それと同じで、お釈迦様であれお弟子であれ、お悟りがあろうとなかろうと、痛い時は痛いし、悲しい時は悲しいものだ、とおっしゃったのです。
ただその先に大きな違いがあります。
お釈迦様は
「しかし私には二番目の矢は刺さらないのだ」
とおっしゃいました。私達一般人は、体に刺さる最初の矢だけでなくて、心に二番目の矢を受けているのだ、とおっしゃるのです。

二番目の矢、というのはどういうことでしょうか。
タンスで足をうった時のことを思い出してみましょう。
痛みにかっとなって、ついついタンス自体に腹を立てなかったでしょうか。こんな邪魔な所にタンスをおく馬鹿があるか、そう言って怒鳴った人もあるかも知れません。
あるいは自分がこんなに痛い思いをしている側で涼しい顔をしている家族に八つ当たりの矛先を向けたことはなかったでしょうか。考えてみれば、痛みが単なる痛みで終わっている場合は意外と少ないのです。

もうおわかりになったでしょう。もともとは足の小指の痛みでした。これが誰にでも飛んでくる「第一の矢」です。お釈迦様ならここでおしまいです。
しかし私達はそれだけでは済みません。次々と第二、第三の矢を作り出して、そして気がつかないうちに自分で自分の心にそれを突きたててしまっているのです。
最初の矢より、この二番目の矢がもたらす痛みのほうが大きくて、長く尾を引く場合があるのですから、お釈迦様は私達に、
「第二の矢を避ける努力をしなさい」
とお示しになられたのです。

お悟りというのは、日常生活を離れてあるものではありません。私達の身の回りの生活のどこを切り取っても、お釈迦様に近づくための機会が溢れていると言えるのではないでしょうか。

2003/09/18