過去の法話

顔を洗う

京都府 導故寺住職 木下光章 老師

道元禅師の著書、正法眼蔵の中には、哲学的な教えと同時に様々な日常生活の行為について教えられたものがあります。
その中に、朝、顔を洗う洗面についての一巻を設けて、朝の洗面は自分の身心をあらいきよめ、自分の住する環境をも一緒にきよめられる仏教の根本修行であるとお示しになっています。

永平寺では白山より引かれた清らかな水で、偈文を念じながら歯を磨き、目・鼻・口・頭、そして耳の裏まではきれいに洗います。使う水の量は桶に一杯。この作法の一つに一つに仏法があらわされていると教えます。

そしてまた、道元禅師は「修証不二」を説かれます。
修は修行、証は悟りのことです。その修行と悟りがへだたりがなく一体だということです。
常識的には修行が先で、悟りは後で、修行の結果お悟りがひらけることだと思いますが、そうなると修行しながら悟りを待ち望むようになりかねません。
禅では、修行と悟りを対立させてその間にいろいろの思慮分別をさしはさむことを「染汚」(ぜんな)といって、とても嫌います。修行は汚れのない事が、不染汚の行でなくてならないのです。修行のときは、求める心を投げ捨て、身も心も修行に打ち込むことが、そのまま悟りだというのです。

私たちはよく「何々のためにこれをする」といいますが、この「何々のため」というのがどうも曲者で、ここに染汚のタネが宿ります。「何々のために」という行いには染汚のタネが宿っていないかよく注意する必要がありそうです。

不染汚の行とは目的のために手段を労するのではなく、手段イコール目的です。したがって汚れのあるなしにかかわらず、毎朝洗面するということは実に不染汚の修行であり、これがそのまま悟りなのです。
皆さまも、顔を洗う時に仏教の根本の修行と思い出してみてください。

2002/12/25