ほとけに出逢う

第4回 聖諦すらなお為さず、何の階級かこれあらん−青原行思禅師−

読み(しょうたいすらなおなさず、いずれのかいきゅうかこれあらん−せいげんぎょうし−)

六祖の下には多くの優れた門下が輩出しましたが、中でも青原行思禅師と南嶽懷讓禅師が特に優れ、日本では私たち曹洞宗は青原系、臨済宗・黄檗宗は南嶽系で、今も続いています。

六祖の仏法の革新的なことの一つは、人の賢い愚かに関係なく、仏に直結する実践の道を示されたことです。
ふつうは凡夫が修行して、階段を上るように最後に仏になる、と説かれます。理論的にはこう説かざるを得ません。

ところが青原禅師は「階級に堕ちない行は、どう務めればよろしいか」と六祖に問われます。階段を登るような修行は本当ではない、ということです。なぜ階級に堕ちてはいけないのでしょうか。

道元禅師は「行を迷中に立て、証を覚前に獲る」と言われています。
覚前とは、覚る前=迷いではなく、迷い・覚りの前です。迷わなければ覚ることも要らないのです。
仏さまの坐禅、達磨大師の伝えられた坐禅は、この迷・悟、凡夫・仏の分かれる以前の行です。
生身の私がその身をもって坐禅を務める。それが「行を迷中に立つ」です。
その坐禅は凡夫の坐禅ではありません。仏の坐禅です。
もし階級の坐禅であれば、どんな聖人の坐禅でも仏には遠く及びません。

「聖諦すら為さず」。自分が坐禅に一切手を加えません。
ただ坐禅をする。その坐禅を「只管打坐(しかんたざ)」と言います。仏の坐禅、仏を超えた坐禅です。

2008.02.12 掲載