![]() |
||
近畿地区にある道元禅師ゆかりのご遺跡をまとめ |
||
![]() |
||
![]() |
![]() |
|
道元禅師の母方の祖父で摂政関白・藤原基房(松殿)の別邸であって、禅師が幼少時代をすごしたとされる。 |
||
永平寺66世日置禅師が道元禅師の誕生の地顕彰を発願し大正7年に仮本堂を建立。 越前武生市小松の妙覚寺の寺号と道元禅師ご自作と伝えられる禅師の尊像を移したもんである。昭和16年に妙覚山誕生寺と改称した。 |
||
父、久我通親没後、育父となった兄の通具の屋敷跡であると考えられる。 平成10年10月、道元禅師ご生誕800年を記念して京都国際ホテル中庭内に道元禅師歌碑を建立。歌碑の書は、石川九楊氏によるもの。 *兄とされる通具が父とされる説もある |
||
| 道元禅師は13歳の春、比叡山にのぼり、横川の千光坊にて仏道を学ばれた。翌年4月9日解脱谷の寂場坊において天台座主公円僧正について得度された。 この得度の地を最初に顕彰したのは福井県霊山院住職・小川見竜師で、明治25年11月に高さ1M程の自然石の「承陽大師之塔」が建立された。 現在の石碑および境域は昭和58年9月に近畿管区の寺院が中心となり落成した。 |
||
比叡山での修行の中で、疑問と失望をもった道元禅師は母方の縁者である園城寺の公胤僧正をたずねる。道元禅師に公胤は建仁寺の栄西のもとで学ぶことをすすめる。 |
||
| 道元禅師が、比叡山を下り、禅門の扉をたたいた建仁寺。栄西禅師が開き、その高弟の明全に師事し修行をつまれる。 明全とともに中国(宋)へわたり、如浄禅師に相見し、嗣書を受けて帰国。 再び建仁寺に入られ、『普勧坐禅儀』を著された。 平成10年10月道元禅師ご生誕800年を記念して顕彰碑を建立。東隆真老師による解説文も併設されている。 |
||
| 道元禅師が31〜32歳の頃に閑居された安養院というお寺の跡地である。 この地は桓武天皇の頃、深草四位少将義宣の邸宅であったが、その死後に寺を建立し、安養院と号した。 この深草少将には小野小町との恋物語があり、少将と小町の二基の墓がある。 1丈6尺の伏見大仏と呼ばれる盧舎那仏でも有名。 |
||
にほの海や 矢橋のおき乃 |
||
| 慶安元年(1648年)山城国、淀の城主・永井尚政の本願によって先に廃絶した興聖寺を再興する主旨のもとに建てられた。 開山堂には道元禅師の木造が安置され、開山塔には遺骨が奉安されている。 現在も修行道場として雲水が修行に励んでいる。 参道の琴坂は美しい紅葉で有名。 |
||
| 道元禅師が説法の場とした六波羅蜜寺は、市聖といわれた空也上人の開創。 道元禅師を支援した波多野義重の館はこの寺の傍らにあった。 道元禅師は寛元元年(1243年)に六波羅蜜寺で説法をしたと伝えられる。 当寺の空也上人像はよく知られる。 |
||
| 道元禅師は最晩年、体調をくずされ京都の俗弟子覚念の私宅で療養されるが、建長5年(1253年)8月28日に入滅された。 54歳であった。 現在の標柱は昭和55年、二祖国師700回大遠忌を記念して建てられたものである。 |
||
道元禅師が荼毘に付された場所。 |
||
| 『高台寺旧記』によると、法嗣の詮慧が道元禅師の荼毘の後、その地にとどまり師を偲んで草庵を結んだのが「永興庵」と伝えられるが、跡地は不明である。 その霊場の再興のため、山科御陵に用地を求めて大正8年に鹿ケ谷にあった自炊林を永平寺別院として移築。昭和59年6月に、無量山永興寺となる。 疎水沿いの桜の名所。 |
||
開闢は道元禅師。 |
||