私は無宗教者である。特定の宗教は信仰していない。私が死んだら、おそらく無になる
と思ってはいるけれども、その確信があるわけでもない。死後の世界に関するいかなる説
も、根拠不足であり、信じる気にはなれない。
したがって、死後の世界とは、私にとっては謎以外の何ものでもない。だから、死ぬこ
とは、このうえない恐怖である。死から目を逸らそうとして生きるのもいやだが、死を見
つめ続けて生きるのもしんどいものである。
だが、私は死を白覚しつつ生きることにしている。なぜなら、そうしないかぎり、この
世での後悔なき生を生き切ることはできないように思えるからだ。
このように、死後の世界をとくに信じていない人間にとって、葬祭とは何を意味するの
だろうか。唯物論者にとっては、葬祭とは、残された人間たちにとってのこころの整理の
契機であり、癒しの場所であるということになるだろう。あるいはこれからやってくる自
分の死に思いをはせる予行演習ということになるかもしれない。葬祭とは、死んだ人のた
めにあるのではなく、残された人のためにあるものだというのが、唯物論的な答えにちが
いない。
しかしながら、私は、そういう唯物論的な答えをもまた取ることはできない。なぜなら、
私は、死によって、何かがこの世に残されていくと思っているからだ。私が死んだあとに
も、私ではない何かが、私の限界を超えて、この世に引き継がれていく。私は死ぬから、
私の存在はもうそこでおしまいなのだが、かつて私であったものが、私の死後もこの世界
に引き継がれていく。それは私の子どもとか、仕事とか、思い出とかいったものというわ
けでもない。それは、もっと漠然とした広いもののように思える。それは、何なのか。私
はまだその答えを出せないけれども、葬祭というのは、そういうものの受け難きに思いを
はせる場所なのかもしれないと思う。
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