■■ 行事報告 ■■

曹洞宗近畿管区教化センター




曹洞宗総合研究センターオープンフォーラム
「現代に問われる葬祭の意義」−生のかたち 死のかたち−

 森岡正博(もりおかまさひろ)
大阪府立大学総合科学部人問科学科教授
■略歴
1958年高知県出身
東京大学文学部卒業
同大学院人文科学研究科博士課程単位
取得退学(倫理学)
■主な著書
『生命学に何ができるか一脳死・フェミニズム・優生思想』(勁草書房)
『宗教なき時代を生きるために』(法藏館)ほか多数

(配布資料より)
私は無宗教者である。特定の宗教は信仰していない。私が死んだら、おそらく無になる と思ってはいるけれども、その確信があるわけでもない。死後の世界に関するいかなる説 も、根拠不足であり、信じる気にはなれない。
したがって、死後の世界とは、私にとっては謎以外の何ものでもない。だから、死ぬこ とは、このうえない恐怖である。死から目を逸らそうとして生きるのもいやだが、死を見 つめ続けて生きるのもしんどいものである。
だが、私は死を白覚しつつ生きることにしている。なぜなら、そうしないかぎり、この 世での後悔なき生を生き切ることはできないように思えるからだ。

このように、死後の世界をとくに信じていない人間にとって、葬祭とは何を意味するの だろうか。唯物論者にとっては、葬祭とは、残された人間たちにとってのこころの整理の 契機であり、癒しの場所であるということになるだろう。あるいはこれからやってくる自 分の死に思いをはせる予行演習ということになるかもしれない。葬祭とは、死んだ人のた めにあるのではなく、残された人のためにあるものだというのが、唯物論的な答えにちが いない。

しかしながら、私は、そういう唯物論的な答えをもまた取ることはできない。なぜなら、 私は、死によって、何かがこの世に残されていくと思っているからだ。私が死んだあとに も、私ではない何かが、私の限界を超えて、この世に引き継がれていく。私は死ぬから、 私の存在はもうそこでおしまいなのだが、かつて私であったものが、私の死後もこの世界 に引き継がれていく。それは私の子どもとか、仕事とか、思い出とかいったものというわ けでもない。それは、もっと漠然とした広いもののように思える。それは、何なのか。私 はまだその答えを出せないけれども、葬祭というのは、そういうものの受け難きに思いを はせる場所なのかもしれないと思う。


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