■■ 行事報告 ■■

曹洞宗近畿管区教化センター



曹洞宗総合研究センターオープンフォーラム
「現代に問われる葬祭の意義」−生のかたち 死のかたち−

 幤 道紀(へいどうき)
兵庫県神戸市・妙香寺住職近畿管区教化センター統監
■略歴
1940年兵庫県出身
駒澤大学大学院博士課程満期退学(仏教学)
元駒沢女子短期大学専任講師



配布資料より
@生と死をつづめて、仏教では生死といいます。
生死には分断生死と刹那生死の二種類 が考えられています。前者は普通我々が考える、誕生から死に至るまでの一期の生死のこ と。後者は刹那、刹那に生成し死滅する無常な「いのち」、日常的な、従って自覚以前の様相をいいます。この、現代科学や医学でも解明できない「いのち」そのものの真実に目覚めることが仏道にほかありません。
わたしたちは普通「いのち」をわがいのちと思っていますが、我知らずに死んでゆきま す。わが「いのち」わがものにあらずということです。

また、精神と肉体の統合体としての人格に「いのち」を認めるのが普通ですが、わたし たちが生命活動をするということは、眼で見、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、皮膚感 覚で知覚し、心で様々な精神活動をしているわけですから、私たちをとりまくすべての世 界も、心的世界も、わが「いのち」と仏教では説きます。つまり、いのちは始めなく、終 わりなく、また、無限の広がりをもっています。さらに各人の「いのち」のはたらきは無 限に関わりあっています。
『華厳経』に因陀羅網の譬喩があります。帝釈天の宮殿にある羅網に無数の宝珠があり、それぞれの珠が無限に映じあう様子によって、私たちの「いのち」の真実のありようを説いています。無始無終は平板に続く永遠の相ではなく、過去や未来に相対しない「いま」、「ここ」をいいます。その時、生と死は、そして死後も互いに相対しない絶待の存在としてあります。

「たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰 はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありの ちあり。前後ありといへども、前後際断せり。云々」『正法眼蔵現成公案巻』

釈尊当時、断常の二見という思想がありました。断見は死後の虚無をいい、常見は霊魂 を不滅とみる類いをいいます。いずれも縁起の理法に背くものとして否定されています。 現代でもこれに類することを広言する人がいます。「いのち」の真実に気づいていないとい えます。


A大乗仏教の思想のなかで「廻向」の思想は重要です。葬祭儀礼はもちろんのこと、宗 門僧侶の日常的宗教活動を支えるものです。平成6年に『回向』という小冊子が宗務庁か ら発行されていますが、いまいちど、ふりかえるべきでしょう。


B僧侶の死を遷化といいますが、わたしたちは願ってこの世に生まれてきた、また願って化度の場を他に遷すという含みがあります。わが「いのち」をそのように受け取ること も菩薩思想の実践として大切だと思います。


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