@生と死をつづめて、仏教では生死といいます。
生死には分断生死と刹那生死の二種類
が考えられています。前者は普通我々が考える、誕生から死に至るまでの一期の生死のこ
と。後者は刹那、刹那に生成し死滅する無常な「いのち」、日常的な、従って自覚以前の様相をいいます。この、現代科学や医学でも解明できない「いのち」そのものの真実に目覚めることが仏道にほかありません。
わたしたちは普通「いのち」をわがいのちと思っていますが、我知らずに死んでゆきま
す。わが「いのち」わがものにあらずということです。
また、精神と肉体の統合体としての人格に「いのち」を認めるのが普通ですが、わたし
たちが生命活動をするということは、眼で見、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、皮膚感
覚で知覚し、心で様々な精神活動をしているわけですから、私たちをとりまくすべての世
界も、心的世界も、わが「いのち」と仏教では説きます。つまり、いのちは始めなく、終
わりなく、また、無限の広がりをもっています。さらに各人の「いのち」のはたらきは無
限に関わりあっています。
『華厳経』に因陀羅網の譬喩があります。帝釈天の宮殿にある羅網に無数の宝珠があり、それぞれの珠が無限に映じあう様子によって、私たちの「いのち」の真実のありようを説いています。無始無終は平板に続く永遠の相ではなく、過去や未来に相対しない「いま」、「ここ」をいいます。その時、生と死は、そして死後も互いに相対しない絶待の存在としてあります。
「たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰
はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありの
ちあり。前後ありといへども、前後際断せり。云々」『正法眼蔵現成公案巻』
釈尊当時、断常の二見という思想がありました。断見は死後の虚無をいい、常見は霊魂
を不滅とみる類いをいいます。いずれも縁起の理法に背くものとして否定されています。
現代でもこれに類することを広言する人がいます。「いのち」の真実に気づいていないとい
えます。
A大乗仏教の思想のなかで「廻向」の思想は重要です。葬祭儀礼はもちろんのこと、宗
門僧侶の日常的宗教活動を支えるものです。平成6年に『回向』という小冊子が宗務庁か
ら発行されていますが、いまいちど、ふりかえるべきでしょう。
B僧侶の死を遷化といいますが、わたしたちは願ってこの世に生まれてきた、また願って化度の場を他に遷すという含みがあります。わが「いのち」をそのように受け取ること
も菩薩思想の実践として大切だと思います。