葬られる側の気持
「現代に問われる葬儀の意義」に関して、申し上げたいことは山ほどあるが、このたび
は次の3点にしぼって論じたい。
(一)現状=僧は葬式の脇役に転落した。
日本の寺の9割以上が葬儀にたずさわり、それで生計をたてているだろう。葬儀は人間
の生と死を分かつ重大な儀礼であり、その司祭者として僧侶が立ち会う責任はきわめて重
い。
ところが現在、葬儀を仕切っているのは葬祭業者であり、場所はセレモニーホールやホ
テルが増えて、僧侶は招かれて読経する脇役と化し、寺院は遺骨を預かる墓の在りかにす
ぎなくなってきた。つまり「葬式仏教」でさえなくなりつつあるのだ。
かつて寺は地域共同体の中心として、戸籍をとりしきる役場、教育・文化の担い手とし
ての寺子屋、人びとに憩いや話し合いを与える溜まり場といったさまざまな機能をもって
いたが、それらが次々と剥ぎとられてしまった。
最後に残る「葬式」から締め出された時、僧の存在理由はどこにあるか。
(二)背景=死が「哀しくない」時代。
人生50年だったころ、葬式は常に怒りと哀しみの場だった。せめて極楽浄土という来
世を想定せねば、この悲劇は納得できなかった。僧侶の読経はその約束だった。
しかし今、家族制度は崩壊して、世帯主の死はひとりの私事に見え、残された家族は遺
産を山分けし、解放感さえ味わう。
医療技術の進歩、栄養の向上、福祉の前進によって、日本は世界一の長寿国になった。
いわば「死なない」社会が出現し、しだいに「死ねない」社会と化しつつある。少なから
ぬ老人にとって長生きは幸福より不幸、不安に近い。定年によって社会的生命を奪われた
後、20年、30年をどう生きるか。そして人間の尊厳を保ちつつ、うまく死ぬか。老人
の願いはそこにあるだろう。
これが成就した時、葬式は自他ともに、心から哀しむ祭典になるはずなのだ。
(三)対策=人生の戦友としての僧。
こうして葬式を支えてきた「無常観」そのものが変質してきた今、これに寄りかかって
きた僧侶と俗世問とのミゾはますます深まってきた。
難解なお経はその沈痛なメロディーによって、葬式の主調低音をなしているが、会葬者
は経典の内容を問い始めている。僧の法話は、死者個人をいかに知らないかを自ら暴露し
てしまう。同窓の友人たちの弔辞の方が、圧倒的に胸を打つのである。それは僧侶が「ご
本尊さま」や「教団組織」にばかり顔をむけ、檀信徒と日々の苦楽をともにして来なかっ
たツケといってよい。
曹洞宗の場合、禅の修行を根本とし、大衆から遊離しかねない宿命を持ってはいる。し
かし本当の禅は、日常生活を誠実に丁寧に生きることと無縁ではない。そこが檀信徒との
強い接点であるだろう。極言すれぱ、大衆にソッポをむかれるのは、僧侶たちの禅が本物
でないからかもしれぬ。僧俗が人生の戦友なら、葬儀も必ず活性化するはずだ。